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夕立~ゆうだち~ - 八

2015/02/16 08:20

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 京都は二十年前、記念すべき年を迎えた。
 平安建都千二百年年。
 その前年辺りから、プレイベントや式典が数多く催され、それを機会に地下鉄の整備や駅舎の高層化をはじめ、新しい都市計画が着工された。そして現在、それらは完成し、歴史都市京都は新しい時代に合わせて動き出した。
 もうすっかり記憶の中からそんな節目があったことも忘れ去られた今。
 最近になって市民の多くが心の奥底で「何かおかしい」と感じはじめていた。何がどうおかしいのかはわからない。だが、何かおかしい。今年も祇園祭も無事進んでいるし、街はいつもの様に生活する人々や観光客で溢れ、景気は悪いもののそれなりに活気に満ちている。例の異常な程多い放火事件はともかくとして、他におかしな所など無い筈なのに……気のせいか? そう納得しようとしてもやはりひっかかるものがある。観光客達は何も気づいていないようだが、京都で生まれ育った者は敏感に街にたちこめる違和感を感じとっていた。
「だからと言って、その原因に気がつく人間など、ほとんどいやしないさ」
 聞く者がぞくりとするような冷たい声で、言い放つ男がいた。
 エアコンのよく効いた、広く豪奢な部屋。外の暑さが嘘の様に冷えた空気に微かに漂う芳香は、螺鈿細工を施したテーブルの上の香炉からくゆる伽羅の香り。床は見事なペルシャ絨毯で覆われ、贅を凝らした彫像や燭台が絶妙に配置されている。
 何処かはわからない。しかし窓から見える景色は京都市内でもかなり賑やかな中心地らしい事はわかる。黒い革張りのソファーに、深々と腰掛けたまま、下をせわしく行き交う人の流れを、総ガラスの大窓から見下ろす人影がこの部屋の主である。
「準備は滞り無く進行しているだろうな」
 また冷たい声が言った。
 部屋には彼の他に誰もいない。しかし返事はあった。
「はい。あと僅かで、聖柱は全てこちらの印に塗り替わります」
 床から湧き出す様な異様な声が慇懃に答え、この部屋の主は表情も変えずに頷いた。
「依童の方はどうなっている? なまじの霊媒では役にたたんぞ」
「それが……二・三あたりはつけておりますが、どれもこたびの大役に耐えられるかどうか、些かの不安が――――」
 姿無き声にわずかに脅えが走った。まるで主の機嫌を損ねるのを恐れるように。
「ふん」
 ソファーから彼が立ちあがった。空気が一瞬ぴくりと動く。姿無きものの緊張か。
 それを察したのか、
「ほう。怖いか? 私が。ならば制裁を受けずともよい働きをすればよい。そうすれば私とて無下には扱わん」
 彼は更に冷たさを増した声で言った。
「まあいい。まだ時はある。まず方円を完成させ、癇に触る邪魔者を消せ。そして最高の器を見つけ出すのだ。それと……勝手な真似はするな。言われた事だけすればいい。行け」
「御意」
 姿無きものの気配が消えた。言われた通り行ってしまったらしい。
 完全に一人きりになったこの部屋の主は、窓辺にゆっくりと歩み寄り、また街の様子を見下ろした。
 足元を行く人々は蟻の行列みたいに見えた。
 彼が笑った。
 硝子に映ったその姿は、天から舞い降りた天使の様に繊細で、美しかった。
 ただ、その狂気を孕んだ瞳を除いて。


 一夜明けて快晴の空に、また真夏の日差しが戻ってきても、克己と咲也の心は晴れなかった。
 さすがに昨夜は一睡も出来ず、二人で気が紛れるようにと冗談を言い合っていたが、どちらも笑うに笑えず何時の間にか気まずくなって、最後には黙りこくってしまうのだった。
 思い起こして、朝一番に二人で現場へ行ってみたが、昨夜のうちに俊己が始末したのか惨劇の跡は微塵も残っていなかった。徳次の貼り付いていた壁も、血一滴残さずきれいに拭取られ、何事も無かったかのように真っ白なだけだった。
 警察にも連絡せずじまいだが、いいんだろうか? と咲也は気にしたが、
「まさか警察に『犯人は畳ほどもある手をした鬼なんです』とは言えんだろう」
 俊己にそう返された。
「幸い……といっては不謹慎だが、徳次は東北の寒村の出で、一人の身内もおらん。消えたとて気に懸ける者も誰も――――」
 結局、闇に葬られる事となった。
 せめて不幸な若者を、ここにいる者で手厚く葬ってやろうということで、遺体は境内の裏山に埋める事にした。克己と咲也も手伝い三時間かかって深く穴を掘った。
 白い布に包まれ、リヤカーに乗せられて運ばれて来た徳次の遺体を、咲也は見たいと申し出た。やめたほうがいいと俊己と克己が止めたが、咲也は押し通した。初めて会ったばかりなのに、死してのち、霊になっても自分の身を案じてくれたという青年に考えてみれば言葉の一つもかけてやれなかった事が悔やまれるのだ。廊下ですれ違っただけの青年がどんな顔をしていたのかさえ思い出せなくて昨夜はずっと気に病んでいた。
 俊己がゆっくり布をめくった。
 少しでも元の形に戻そうと苦労したらしく包帯で頭部はぐるぐる巻かれ、僅かに覗く無傷の顔は、珠代が死化粧を施したせいで妙に唇が赤い。野暮ったく田舎臭い面差しは眠っているように安らかだった。
 咲也は、しかしなんと言葉をかけてよいか困って、しばらく考えてから決心すると、克己達が驚くような行動に出た。
「おやすみ」
 そう言って徳次の額に口づけしたのだ。
 これにはさすがに俊己も克己も唖然としたが、二人とも、美しい少年に口づけされた徳次が頬を染めた気がして我目を疑った。
 俊己と克己が祝詞をあげ、静かに埋葬をすませた頃には午後になっていた。
「とんだ夏休みの幕開けになったね」
 と、克己。
「まったく」
 咲也が肩を竦める。
 蝉の声のBGMの中、Tシャツとジーンズ姿でジュースを片手に縁側で足をぶらぶらさせて並んだ二人は、平和な夏休みの少年達の偶像だが、その表情はひどく暗い。
「咲也、後悔してるでしょ。家に来て」
「そんな事ないよ。今度の事は誰のせいでも無いもん……って言うか、俺、気になってたんだけど、ひょっとして徳次さんが死んだのは俺のせいじゃない? いつもみたいに、俺が良くないモノを招いたんだったら……親父さんが言ってた、絵馬に封じ込められてた鬼だか何だかが目覚めたってのも、俺がいるせいなら……悪いのは俺だ」
「それは違う」
 答えたのは克己ではなかった。
 浅葱袴に竹箒を持ってといういでたちで、庭から俊己が声を掛けたのだ。話を聞いていたらしい。
「若い者の仲間に入れてもらっていいかな?」
「もちろん」
 俊己は咲也の横に腰掛けた。並んでみると咲也より幅は少し広いが背は小さく、結構小柄だった。瀬名家の血筋らしい。
「咲也君、君のせいでは無いから安心したまえ。確かに君はわしもはじめて見る程の強い霊媒だが、自分から働きかける力は無い。絵馬に封印されていた物の怪を開放したのはあきらかに外からの力が故意に働きかけた結果だ。恐らく結界を破ったのと同じ力……隠しても仕方ないから言ってしまうが、近頃京都は少し様子がおかしいのだよ」

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