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夕立~ゆうだち~ - 一

2015/02/16 07:24

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 京都。
 その名を聞く者に、他のどの街とも違った高貴な響きを感じさせる街。
 千二百年にわたる歴史と伝統に支えられたこの街を人が思い描く時、まず美しい街並みや風雅に佇む古刹、名刹、舞妓の艶やかな姿に芸術品のような京料理……そんなものが懐古と憧れを伴って浮かんでくるだろう。
 しかし実際のところは、時代劇に出てくる様な大時代がかった街並みや和服姿の女性、「どすえ」なんていった京言葉を使う者などほとんど姿を消し、よくTVで目にする美しい風景に出会えても、観光客でごった返して決して静かにひたる事など出来ない。昔、貴族達の雅な牛車が行き交ったろう大路には今では自動車が犇めき合い、昔の面影を留めた寺社仏閣は景観など無視して建った近代的な建物の谷間に埋もれている始末……
 それでもやはり、この街は特別なのだ。
 おかしなものだな……と思いながらも、やはり自分も〈京都〉と聞く度に、美しい幻想を抱いてしまう咲也(さくや)だった。
 彼は、いままさにその〈京都)に向かう列車に揺られている。
 ふいに、肩が軽くなったのに気がついて隣を見ると、つい今しがたまでもたれ掛かってすやすや寝息をたてていた克己(かつみ)が、欠伸をしながら腕をのばしていた。
「なんだ、起きたのか。つまらん。あんまりよく眠ってるから、起きなかったら放っ
 といてやろうと思ってたのに」
「残念でした。だって着いたんだもん」
 そう言って、克己は荷棚から鞄を降ろし始めた。
 列車はまだスピードを緩める気配も無く、修学旅行で一度来たっきりの咲也にはよくはわからないが、まだ滋賀との境を過ぎるか過ぎないか、というところだろう。
 まだだぞ……と言いかけた所に車内アナウンスが流れた。あと数分で着くらしい。
「へえ、あれだけぐっすり寝てたのによくわかるな」
「まあね。京都は特別だから」


 瀬奈克己と日下部咲也は、東京の私立男子校の二年生。同じクラスで、寮のルームメイトで、そして大の親友同士。
 彼等の学校は、東京とはいっても郊外の全寮制の進学校で、その殆どが地方出身者で占められており、克己もそんな遠方からの学生の一人で、実家は京都である。
 時は夏。学生達は待ちに待った夏休みがやって来て、それぞれの故郷へと帰省していった。克己は親友の咲也を伴って久々にここ、京都へ里帰りしてきたのだ。
「俺、本当にお邪魔しちまっていいのかな? 家の人、迷惑じゃない?」
 駅から乗り継いだ市バスを降り、緩やかな坂道を上る途中、咲也がふと足を止めた。
 克己はくすっと笑って、
「今更、何言ってんのさ。迷惑なんかじゃないって。親にはもう咲也も一緒だって言ってあるんだから遠慮なんかしなくていいよ。大体これから東京に帰る訳にはいかないし無理矢理連れて来たのは僕の方なんだから」
「別にお前が無理矢理連れてきたって訳じゃ……俺だってそりゃ、楽しみにしてたしどうせ家に帰ったって居場所がないもん。でも久しぶりに親に会うんだから、やっぱ、水入らずといきたくない? 昼間はともかく、夜寝るとこくらいは俺、そこいらでホテルなり宿屋なり探したっていいし」
 咲也が至って真面目な口調で言うのを聞いて、克己がちょっと悲しそうな顔をした。
「僕んち来るの嫌なの?」
 咲也は慌てて首を振って、
「そうじゃ無くて……俺と違って、克己の家はちゃんと両親揃ってるじゃん。正直言って、俺、緊張してんだよね」
「そんな……」
 咲也の家の事情は克己もよく知っている。
 実の母親は咲也が六歳の頃亡くなり、父は翌年、二人の連れ子のいる女性を後妻に迎えたが、彼女は実の子ばかりを可愛がって、咲也には辛くあたった。そして、唯一の味方だった父も三年前鬼籍の人となり、家にはもう血の繋がりのある人間は一人もいなくなってしまったのだ。義理の兄弟達とは仲がよかったが、やはり咲也にとっては居心地は悪いらしく、高校進学の時に寮制の学校を選んで家を出て以来、殆ど帰っていない。要するに、咲也は家庭の温かさみたいなものに慣れていないのだ。
 だからこそ……と克己は思った。だから咲也を一緒に連れて帰ったんじゃないか。
 それに、長い期間目を離せないわけもあった。
 しかし、口に出しては、
「夏休みの京都で、空いてる宿探すのは結構難しいよ。料金だって高いし」
 としか言えなかった。
「やっぱ、そう?」
「うん」
「……じゃあ、お世話になるしかないな」
「本当に遠慮なく。それより咲也の方こそ驚かないでよ。僕の家ちょっと普通じゃ無いから」
「お前だけでも充分過ぎて余りある程普通じゃ無いんだから、大方予想はつくけどね」
 やっと咲也らしい言い方になったのを聞いて克己はほっとした。
「言うね。僕に言わせりゃ咲也の方が異常だよ。さっき消したげたばかりなのに、ちょっと歩いただけで、ほら、もう一人連れて来てるよ」
 克己は、咲也の肩の辺りへちらりと目を遣って、溜息をついた。咲也はその視線の先を確かめたが、彼には何も見えない。
「今度はどんなの?」
「若い女の子。たちの悪いものではないみたいだけど」
「ほう。可愛い?」
「こらこら」
 克己の目にははっきりと、咲也の肩に手を掛けている自分達と同い年位の、髪の長いおとなしそうな少女が見えている。周囲に人はいないが、いたとしてもおそらく克己にしか見えていないであろう少女。
 その少女は、うっとり愛しそうに咲也の顔を覗きこんでいたが、克己と目があうとおずおずと手を放して、二・三度咲也の頭の上を飛び回って、すう、と消えた。
「あらら。いなくなっちゃった。まだ何にもしてないのに」
「よかった。俺としては、生きてる女にモテたいからね」
 他の者が聞いていれば、頭がおかしくなりそうな会話を交わしながら歩いているうちに目の前に長い石段が見えてきた。
 二人は立ち止まって上を見上げた。
 七月下旬の焼け付く様な日差しと、抜ける様な青い空を背に、黒々と木々が繁り、蝉の声が響く。乾いた苔が所々淡い緑褐色の染みをつくる石段の上に、大きな石造りの鳥居が構えている。木々の深緑をバックに、それは夏の光を受けて白く輝いて、くっきりとしたコントラストで浮かび上がっていた。
「克己の家この上?」
「うん」
「へえ……随分立派な神社なんだ」
「そんな事無いよ。さて、と。あの鳥居をくぐったら父さんの結界の中だから、咲也も少しは落ち着けるよ。また幾つか頭の上に集まって来てるみたいだから、急いだほうがいいかも」
「結界?」
「そう。なんて言ったらいいのかな……えっと、要するに悪い霊なんかが入ってこれなくするバリアみたいなもの」
「へえ便利! 早く教えろ。そういう事は」
 咲也は聞くなり段飛ばしに階段を駆け登った。その後ろを、もやもやしたものがついていく。克己にしか見えないが。克己は苦笑いを浮かべて、ゆっくりと一歩一歩踏みしめる様に登っていった。久々の里帰りに嬉しい反面、心の中に蟠る暗雲にも似た不安が、彼の足取りを重くするのだ。
 この街に一歩踏み込んだ瞬間から感じる、違和感は一体――――
(……咲也を京都に連れてきて本当に良かったのだろうか……)
「克己! 早く!」
 上から、息を弾ませた咲也の無邪気な声が降ってくる。
(なんだか、僕は取り返しのつかない事をしてしまった気がする)
「克己!」
 咲也の声にはっとして、克己は数回小さく頭を横に振った。
「はいはい……ったく、このくそ暑いのに元気だね。咲也は」
克己は肩を竦めてそう言ってから、駆け足で段を上り始めた。
(気のせいだといいんだけど……)
 八十段を登り詰めた頃には、二人は汗だくになっていた。今日は34度をこす暑い日でじっとしていたって堪らないところだ。日差しがじりじり焦がす様に、Tシャツの袖から剥き出しの若い素肌に突き刺さる。
「毎日この段を上り下りしてたんだろ? 結構効くぜ」
 今上がってきたばかりの石段を見下ろして咲也がひゅう、と口笛を吹いた。もっとも、息が切れて音が震えている。
「これも修行のうちさ。雪の日や、こんな真夏は嫌になった事もあるけどね」
 克己も咲也に習って下を見下ろした。街の中心部から外れた小高い丘の上、さらに石段を何十段も登ってきたのだ。眼下には京都の街が一望できる。四方を山で囲まれた平たい街の上、青空の彼方にもくもくと雲が迫っている。湧き出すような蝉の声に混じって、遠く、微かに、聞こえるのは雷鳴か。
 克己の胸に、また先程振り払ったばかりの暗い予感が影を落とした。
「……夕立が来そうだね」
「いいじゃん。夕立って好きだよ。ざぁって降ってぱっと止む。気持ち良くない?」
「――――そうだね。さあ、咲也」
 二人は向きを変え、鳥居を潜って結界の中に足を踏み入れた。

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まいるどタブレット小説 Ver1.13