HOME

 

百鬼夜行~ひゃっきやぎょう~ - 一

2015/02/16 13:47

page: / 86

 床に横たわって身じろぎ一つしない環を、克己はじっと見つめていた。
 自分と同じ顔を持った少女。たった一人の血を分けた姉。
 しかし、よその普通の姉弟達の様に、じゃれあったり喧嘩をした事も無ければ、言葉を交わしあった事すら無い。記憶の中の彼女はいつもこうして静かに目を閉じ、何時覚めるとも知れぬ眠りについているばかり。世の中がどんなにめまぐるしくて、どんなに素敵でどんなに辛いか、日の光、木々の緑、流れる水の冷たさ、街のざわめき、生活の匂い……この世に満ち溢れている全てのものを彼女は知らない。そして家族がどんな顔をしているのかさえ――――操られていたとはいえ、そんな彼女が今日はじめて外へ出た。
 克己は姉に語りかけた。
「ねえ環、外はどうだった? 怖かった? 鬼に全部乗っ取られてわからなかった?」
 勿論、返事は無い。
 だが幼い頃から、何度こうして答えてもくれぬ姉に語り掛けたろう。学校や家で悲しい事があった時、楽しい事や嬉しい事、悩み事……何でも報告して聞かせた。決して自己満足では無しに、環はちゃんと聞いていると克己は知っている。わかるのだ。双子には。
「前に話した咲也に会ったんだね。ね、言った通りだろ? 僕が夢中になるのがわかった? ……その咲也が大変なことになってるんだ。知ってるよね。和馬さんが一人で捜しに行ってくれたんだけど、まだ連絡も何もないんだ。あの人の事だからむざむざやられたりしないと思うけど、僕、もう心配で心配で頭がヘンになりそうだよ。環は知ってるの? 咲也がどうなったか、何処に連れて行かれたか。環、聞いてる? 教えてよ。ねえ――――」
 白くあどけない顔は何の表情も示さず人形の様に動きもしない。それでもいつか答えてくれる気がして克己は待った。
 そんな様子を二人の母親である珠代が涙を浮かべて障子の陰からそっとうかがっていた。
 物言わぬ娘と懸命に語り掛ける息子。鏡に写したような二人の子供達があまりに不憫で、胸が絞めつけられるようでとても声を掛けられなかった。躊躇していると、
「誰かいるの? 母さん?」
 気がついて、克己の方が先に声を掛けた。
「え、ええ」
 珠代は涙を拭って、何も聞かなかった様な顔をして部屋に入った。
「環なら僕がついてるから平気だよ。それとも和馬さんから何か連絡あったの?」
「いいえ、まだ何も」
「そう……」
 溜め息をついて俯いた克己に、珠代は慰めの言葉が浮かばなかった。今朝、雲母の付添いにいた病院から帰ってはじめて、咲也と環の事を聞かされた珠代ですら、一時もじっとしていられないくらい心配で堪らないのに、親友の安否もわからず一夜を過ごした克己の心境は如何ばかりか――――
「……夕拝が済んだらもう一度病院に戻ろ思てましたけど、家にいるから少し休みなさい。和馬さんの連絡があったら言うから」
「ううん、平気。母さんは病院にいてあげて。雲母さんの具合はどう?」
 克己に訊かれて、珠代はあっ、と小さく声をあげて両手をぱちんと合わせた。
「そうそう、それよ! 帰ってすぐ環や咲也ちゃんの事を聞いたから忘れてたけど……
 雲母さんね、元に戻ったの!」
「ええっ? 本当?」
「戻ったといっても意識はまだ無いんだけどあれが……普通の安らかな寝顔に変わったんよ。あんたが帰ってすぐよ。お医者さんもビックリしてはったわ。克己ちゃん、あんたが何かしたの?」
「僕は別に何も……でも、そう、雲母さんが……」
 雲母といえば――――
 はっ、と克己は顔を上げた。
(そうだ忘れてた!)
 医師に渡された、雲母の命を救った御札。彼女が恐怖の瞬間に書き残した、謎の言葉。あれこれ気に懸かる事が多すぎて、頭の中から追いやられてしまっていた。
 気づくが早いか部屋を飛び出た。確か昨日ジーンズのポケットに入れたままだった。そのまま洗濯されてたりしたら……
「克己ちゃん、どうしたの?」
 外に飛び出すのではと、珠代が慌てて追いかけた。勝手な真似をさせるなと俊己からきつく言い渡されている。
 だが、克己はくるりと向きを変え、食いかかる勢いで珠代に掴みかかった。
「母さん! 昨日の服洗濯した?!」
「え……ええ」
 珠代は一瞬唖然とした。何を言われるのかと思ったら。少し考えて意味を把握した。
「……ああ、あれの事? ズボンのポケットに入ってた御札なら居間の台の上。洗ったりしませんよ。バチがあたるわ」
「母さんサイコー!」
 ぱっと明るい顔になって走っていく克己を珠代は放心したみたいに見送った。先程までこの世の終わりみたいな顔をしていたくせにこの豹変ぶりはどうか。
「……極端な子やね」
 一方、克己はやけに張りきっていた。
 じっとしていれば心配に身を焦がして、だんだん悲観的になっていくばかりだが、何か考える事があればその瞬間だけでも忘れていられる。それにあの言葉が鍵かもしれない。
 居間に入るとすぐに御札はみつかった。
 裏返してみる。
“杯の――――”
 本当に走り書きといった感じで、後の方は読めない。頭の文字だけが何とか読み取れる程度だ。
「……さかずき?」
 他の字の間違いでは無いかとよく見てみたが、そうとしか読めなかった。
「杯って、お酒を入れる、あれ?」
 だが、雲母が命懸けで書き残した言葉だ。何か深い意味があるに違いない。
 克己はしばらく考え込んだが、何の事かはわからなかった。念のため、辞書もひいてみたが、変わった意味は載っていなかった。
 さっきまでの元気がまた萎んでいく。
 せめて後の文字が読めれば――――
 しかし叩きつけたみたいな線は一つの字とは呼べ無いものだった。雲母のあの様子を思い出せば、字を書き残せただけでも奇跡的だ。
「困ったな……」
 もしかしたら、咲也を取り戻す手掛かりかもしれないのに、これでは何にもならない。雲母は意識が無いし……第一、もし話が出来る程まで回復したとしても訊いてはいけない気がした。彼女は未来を見たから襲われた。だが占いも出来ず秘密を漏らせなくなったおかげで、再び襲われたりとどめをさされる事も無くいられるのだろう。折角敵のマークの外れた今、わざわざもう一度危険な目に遭わせる事は出来ない。もはや彼女はあてにしてはいけないのだ。
 克己はまた暗礁に乗り上げた気がした。
 しかし、文字を凝視していてふと閃いた。
(まてよ……)
 辞書にも載っていない解釈があるのなら、普段はあまり使わない言葉なのかもしれない。雲母は占い師で西洋魔術にも詳しい。そして敵もおそらく魔術関係の人間……その点から推理してみよう。
 これはその道の用語なのでは?
 考えられると克己は思った。命に関わる瞬間に、咄嗟に出るなら慣れた言葉だろう。
 詳しい人に訊いてみよう。雲母本人が駄目でもそれなら誰でもいいし、それが駄目でも専門書を調べれば載っているかも……
 まだ微かな希望が湧いてきた。

page: / 86

 

 

HOME
まいるどタブレット小説 Ver1.13