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環~たまき~ - 八

2015/02/17 07:17

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「忘れ物は無い?」
「はい」
 瀬奈家の玄関先では、珠代と雲母が克己達を送り出そうとしていた。
 和馬はすでに一足先に発っている。今頃は応援に駆けつけた霊能者達と共に街を駆けまわっているだろう。
 一足遅れで、今克己と俊己も最後の戦いに赴こうとしていた。
 送られる側も覚悟の程が伺える姿だ。
 彼の制服ともいえる神職の装束に身を固めた俊己、克己は緋袴の巫女装束。本人は動きにくいから、と気がすすまなかったらしいが珠代に是非と言って着せられたのだ。
『これは、私が昔着ていたもの。環……いえ、克己ちゃんは穢れの無い乙女やもの。神様にお仕えする身として正装は当然よ』
 この言い分に、本人を除く皆が納得した。
 また、少女にこの上無いほど似合っている。
 かち、かち。
 火打ち石の火の粉を浴びて、二人は見送りの女達に頭を下げた。すでに言葉での訣別は済んでいる……行く方も送る方も、決意が鈍らないよう無言だった。
 動揺した様子も見せず、毅然とした態度で送りだそうとする珠代を見ると、俊己は一層心が痛むのを感じた。これから倒さなければならない相手は、腹違いで記憶にもほとんど無いとはいえ、彼女の実の兄なのだ……
 昨夜、今まで珠代にだけは隠し続けて来た敵の正体を、俊己は二十九年前の出来事から今までの経緯まで全て告白した。
「……憎んでも恨んでもいい。だが、どうしても戦わねばならんのだ」
 そう言って頭を下げた夫に、珠代は静かな口調だが、意外なほどきっぱりと返した。
「ええ、恨みますとも」
「……」
「でも、それは貴方がうちの兄を倒そうとするからではあらしません……うちが憎う思うのは、何でもっと早ようその事を隠さんと言うてくれへんかったんか、ゆう事です」
 思いもよらない妻の返事に返す言葉も無い俊己に、珠代は少し口調を強めた。
「皆が知ってはるのに、うちだけがつまはじきにされてる様な気は、薄々してました。気を遣こてくれはったゆう事はようわかりますけど、うちは嬉しくなかった。兄ならば尚のこと、早く教えてくれても良かったのに。歳も随分離れてるし、顔すらほとんど覚えてへんような兄。今更、情もそないに湧きませんけど、もっと早うに正体を教えてくれたはったら……でももう遅い。うちにはもう、麗夜を許す事は出来ません。この街、この世の人達の事なんかどうでもええ。兄のせいでうちの大事な子供は――――」
「珠代……」
「うちに気がねせず、麗夜を倒して下さい。もうあれとは兄妹でも何でもない、敵です。徳次さんや和馬さんのご両親、沢山の人達、貴方との大事な子供……皆の仇を討って。咲也ちゃんを無事に取り戻して。京都を元に戻して――――それは貴方の務めです。京都に害をなす者を絶つのは瀬奈の家に生まれついた者の定め。うちもこの家に嫁いで来た以上、覚悟は出来てます」
 珠代はそう言ったが、やはり割り切るには辛すぎるだろう。俊己は妻の強さに頭が下がる思いがした。だからこそ、もう何も言うまい。妻も耐えている、自分も務めを果たさなくては……俊己は決意を新たにした。
「……では」
 克己の小さな声を最後に父と子は歩き始めた。もう一度も振返らないだろう。
 鳥居を一歩踏み出した途端、凄まじい熱気が襲って来た。中でさえ暑いと思っていたが予想以上に酷い。何歩も行かないうちに汗が吹き出し、それすらすぐ蒸発した。それでも彼等は一言の弱音も吐かず、黙々と石段を下っていく。
「どうか無事で――――」
 次第に遠ざかっていく後ろ姿を、二人の女は祈りをこめて見送るのだった。


 街を襲った気象の異変はピークを迎え、気温はもうそれ以上上昇こそしなかったが一向に下がらず、灼熱の風は容赦なく街を吹き抜けた。水は干上がり、植物は萎れ、水を求めて野良犬や野良猫が人も車も無い通りを徘徊する……まるで砂漠の中の都市の風景。
 空は夕焼けを通り越して血の様に真っ赤に染まり、妖しげな色の雲が物凄いスピードで流れては消え、また現れて渦を巻いている。風の音に混じって何処からともなく聞こえて来るのは、妖しの嬌声か。笑い、歌、唸り、叫び……耳を覆いたくなる不気味な音。
 ああ、これがあの美しい街、古都京都なのだろうか?
「ごらん。これがこの街の本当の姿。皆、喜び祝福している」
 紅蓮に燃える狂った空の下、太古の風に金髪を靡かせて、麗夜は艶やかに微笑んだ。
 どこかの建物の屋上だ。京都の街を遠く見渡せる景色から言って、相当の高さのある建物。勿論屋外。だが麗夜はこの暑さの中でも汗の一滴も流さず顔色一つ変えない。魔法で彼の周りだけ空気が違うのか。
 床には複雑な図形が一面に描かれ、祭壇らしき物も用意してある。布の掛かった壇の上には禍々しい形の燭台をはじめ、古書、剣、杯などの魔術具が整然と並べられていた。
 麗夜は細い杖を手にし、黒くて丈の長いトーガを纏い、額には今の空の色と同じ巨大なルビーをあしらった金の飾輪が輝いている。魔女の母から譲りうけた儀式用の正装。一見、教会の司祭のようにも見える。確かに彼は司祭なのだ。但し、闇の儀式を取り計らう司祭……この仰々しい衣装も、上に載っている端正な美貌と相まって、いっそう彼を浮世離れして見せ、神々しいとさえ言えた。本物の精霊か天使などの高次元の存在そのものかと見紛うばかりに。周囲の色彩が尋常で無いのですら、彼の美しさを彩り讃えるための背景のようだ。
「もうじきだ。日が沈み、風の向きが変わり、星々の力が大地に降り注ぎ、地中深く眠るものが目覚める時間まで。奴らの秒読みの声が君にも聞こえるかね?」
 何時になく表情豊かに闇の司祭は傍らの人物に語り掛けた。
 だが相手は何も答えず。表情も変えない。少々拍子抜けした様に麗夜は肩を竦めた。
 横にいるのは麗夜に負けず劣らずの美貌の持ち主で、金糸銀糸の刺繍も鮮やかな錦織の衣装に身を包み、身動きもせず静かに座っている様は綺麗な人形みたいだった。
 日下部咲也。麗夜の行おうとする儀式の依童として囚われの身となった霊媒の少年。
 そっと、麗夜は押し黙っている咲也の細い顎に手をやった。
「……君にはもう私の声も届かないのか。望んだ事とはいえ、少し淋しくもあるな」
 くいっと顎を荒っぽく持ち上げられても、あどけなさを残す美しい顔はあらぬ方に視線を漂わせて茫としたままで変化は無い。
 もはや麗夜は魂呪縛の法も薬も用いてはいない。何もしなくても咲也は何の抵抗もしなければ口をきくことすら無い。彼の魂は自らの中に閉じこもってしまったのだ。体はここにあっても空に等しい。
 只でさえ、他の目に見えぬ存在に対して何の防御も持たない咲也が、いっそう無防備になってしまった。元々儀式に際してはかけた魔法も邪魔になる為、この時ばかりは解くつもりでいたが、そうするといくら咲也でも抵抗するだろうと麗夜は踏んでいた。だが、その心配もなさそうだ。望んだ通りとは言え、こうなると些か面白くなかった。
「情が移ったかな。私としたことが……」
 考えてみれば咲也が麗夜の虜となってはや二週間以上。その間常に麗夜は咲也を傍らに置いてきた。魔法や薬で操っていたとはいえ、口答えもぜず従順で思い通りになるくせに、時折玄人でも解けない術を破って驚かされたりもした。余りにも特異な体質ゆえ、放っておけば関係の無い雑霊まで呼び寄せてしまうから常に監視し護ってやらねばならないし、儀式に備えて俗世との縁を断つために聖別した物だけを着せ、食べさせ、世話をし……手もかかった。だが、ずっと側にいるうちに、麗夜は咲也のことを少なからず可愛く思いはじめていた。と言っても恋愛や肉欲とは無縁の感情だ。喩えるなら大人が幼児に対するような、犬や猫などの動物に対するような、鉢植えの花を育てるようなそんな感情。保護欲といってもいい。いくら手がかかろうと自分より弱いもの、小さいものに対しては人は優しくなれるし護ってやろうとする。麗夜自身がそうしたとはいえ、赤子のように無力で何も出来ず、生かすも殺すも思い通りになるこの少年は、麗夜にとっては実にか弱くも憐れで、また愛おしい生物に思えたのだ。
 それだけでは無く、誰かが側にいるという事自体が麗夜にとって意味があったのかもしれ無い。別に咲也でなくてもいいのだ。誰でも。
 いつでも彼は一人だった。老いる事も知らず、魔術を極め、妖しを操る力を持っていても常に彼は孤独だった。かつて友と呼んだ人間さえ殺し、傷つけ、自分と同じ血の流れる妹の子さえ手にかけても罪悪感に押し潰される程やわな玉ではないが、やはり孤独を感じる事はあった。答えなくても話しかける相手、手をかけ、世話を焼く相手がいる事は、どこかで彼を救っていたのではないだろうか――――しかし、それを認めたくはない麗夜だった。
 麗夜は何かを振りきるように咲也を放し、くるりと向き直ると屋上の端へと歩を進めた。
 ガラスの向こうに広がる京都の街。赤い空の下で街は炎に包まれたみたいに輝いている。かつて、京の都が幾度もの戦乱で焼け野原になった時もこんなふうに見えたのだろうか。
 誰に宛てるともなく、麗夜が小さく呟いた。
「散り落ちる間際の花は美しいもの。たとえ宿木の花だとしても……だが、永い間根を張り、土の中で咲く時を待っていた本当の花はもっと美しいかもしれん」
 表情になんの感慨も浮かべず、麗夜は長い間赤く燃える街を見つめ続けた。
 やがて堕天使の美貌に微笑がのぼり、それを愛おしむみたいに妖しの風が衣装の裾と長い金髪を吹き流した。
「風が変わってきたな。時が近い、準備を済ませてしまおう。ぬえ、いるか?」
 麗夜は今度は相手のある言葉を投げた。
 ぐるる、と声は足元からした。
「瀬奈の一党が出て来る事だろう。どうせ死にぞこない、恐るるに足りんが邪魔になる。もはや遠慮はいらん。始末しろ」
 奇怪な眺めだった。があっと猛々しい唸り声がしたかと思うと、平らな床から巨大な獣がぬっと生えて出た。鵺は麗夜の影の中に潜んでいたのだ。
 妖獣はまた一回りも二回りも巨大になっている。妖気を食らうこの闇の生き物の糧は、いまや街中に満ち溢れているのだから。
 鵺の猿面が咲也のほうを向いた。途端、麗夜に呼ばれた時とはあきらかに違う、嬉しげな表情に変わる。
「今日は咲也は一緒では無い。お前だけで行くんだ」
 冷たく麗夜が言い放つと鵺は『一緒でないなら行かない』とでも言いたげに、咲也の傍らに伏せて動かなくなった。
「ほう、私に逆らうか?」
 思いがけない鵺の反抗的な態度に、麗夜の声に怒りの色が混じった。彼の怒りは辺りの空気を凍てつかせ漂っていた無数の低級な霊や物の怪達を怯えさせ、消滅させた。
 それでも鵺は動かない。
「ぶざまにも封印され、千年も惰眠を貪って来たお前を目覚めさせ、解放してやったのは誰か忘れたわけではあるまい。私に逆らったものがどうなったかもな」
 麗夜の双眸に緑の光が灯った。さすがの鵺もたじろぎ、低い威嚇の唸り声を発しながら立ちあがり、後図去った。
「陰陽師の若造一人始末できないお前に再度の機会を与えるだけでも有難く思え。さあ行け。行って今度こそ剣和馬と瀬奈俊己を始末して来るがいい」
 絶対零度の声に、鵺は一声雄叫びをあげ、今度こそ飛び立った。命令よりも、制裁よりも、因縁の相手といえる和馬の名が妖獣の自尊心を動かしたと、麗夜は知っていたろうか。
「ふん、化け物め。少しばかり力を増したくらいであの態度は……身の程知らずが」
 鵺の飛び立った方角をみつめ、麗夜は吐き捨てた。今度は咲也の方を振りかえって少々呆れたように肩を竦めると、
「鵺は私より君を主人と思っているらしい。つくづく化け物に好かれる坊やだな」
「……」
 咲也は何の返事もしない。最悪感に耐えきれず、狂気の世界に逃避してしまった彼には、もう何も聞こえず、見えないのだから。
 ふっと、麗夜の顔に彼に似つかわしくない表情がよぎった。一瞬の事だったが、その目は奇妙なほど哀しくも優しかった。
「……もしかすると君が一番幸せなのかもしれん。何も見なくても、聞かなくても済む君が……」
 そう感情的に呟いた自分を咎めるように、麗夜はニ・三度小さく首を振り、すぐにいつもの冷たい仮面の無表情さを取り戻した。
「邪魔者は鵺が始末する。こちらも最後の仕上げにかかろう。さあ、咲也。君の出番だ。その名のとおり華々しく咲かせてもらおう。真の花をな」
 そう言って、麗夜は身動きしない咲也を重さも感じさせないほど軽がると抱き上げて、祭壇に向かって歩き出した。

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まいるどタブレット小説 Ver1.13