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環~たまき~ - 五

2015/02/17 07:05

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「ねえ、もし生き返れるとしたら、克己はもう一度命懸けで戦う?」
「勿論だよ。生き返れたら……だけど」
「よかった。それを聞いて安心した。これで本題に入れるわ。本当はもっと克己とお話ししてたいけどそうもいかないみたい。あなたの糸はもう限界。脳もついに停止しちゃったみたいね。急がないと……」
「?」
 環は無造作に腰から紐を解く様な仕種を見せた。克己には何も見えなかったが、何かが結び付けてあったらしい。
「何してるの?」
「魂と身体を結んでいた糸を外したの。あ、ちょっと私を押さえててくれない?飛んでっちゃうから」
「ええっ?!」
 驚く弟を余所に、環は今度はその不可視の糸を克己に結び付け始めた。
「ちょっと……環?」
「こら、じっとしてなさい」
 克己は、環のこの行動の意味を悟り、うろたえた。環は普通の事の様に平然として微笑んでいるが、これは大変な事ではないか? 逃げようとしたが、手を放すと環が飛んでいってしまう。どうする事も出来ず克己が困っている間に、環は素早く作業を終えた。
「これでよし、っと」
「環?! 自分が何をしてるかわかってるの?」
「勿論。私の身体を克己にあげる。幸いサイズはぴったりのはずだし、顔だってほとんど変わらないからいいでしょ? 女なのが少し難点かもしれないけど、そのうち慣れるわ」
「そういう問題じゃ無いだろ?! 早く元に戻すんだ!」
「駄目よ、二度とは戻せない。いい? 克己、もう一度生きた人間の世界へ戻りなさい。咲也さんを助けるために。これはあなたの使命よ。そして私のお願い……」
「……でも、それじゃあ環は……?」
「私はいいの。どうせ元からいなかったも同じの人間なのだから――――」
「ちゃんといるじゃないか! たとえ身体から離れていようと、考えて、感じて、生きてる環は――――なのに……なのに!」
 泣きながら克己は環を強く抱きしめた。消え入りそうな儚い少女の魂は悲しい微笑みを湛え、静かに目を伏せた。
「克己……この手を放して。さあ戻るの」
「嫌だ。絶対放さないからね! 僕が行くのを見届けたら、環はあの光の向こうに行く気だろ? 死者の国に行っちゃうんだ。そんな事させられない! 僕一人助けてもらったって何にも嬉しく無いよ!」
 しがみつく克己の腕に、環が抗らって身を捩る。しかし克己の腕は何があっても放すものかと、更に力が籠もった。
「わからない子ね。これ以上言わせる気? いいこと? 私は克己のためにこうするんじゃ無いのよ。咲也さんの為……私はいつもいつも克己の目を通して彼を見てた。あなたと同じ時間、彼だけを見てる。彼は私の事なんか知らず、触れる事も、語り掛ける事も出来ない……それでも私は彼に恋してた。この気持ちはあなたにだって負けない。克己が彼の話を熱っぽく語ってくれるたび、嫉妬した程よ。でも……悔しいけどやっぱり私じゃ駄目なの。彼にはあなたしか……」
 環は始めて少女の顔を見せた。あまりに悲しく、報われない恋を告白する少女の顔。
「克己、今言ってくれたわね? 私はちゃんと存在してるって。そう、だから辛かった。いっそ感情や人格なんかなかった方が幸せだったかもしれない。こんな所にいても心は人並みに出来てる。普通の女の子と同じ……感情もあれば、考えたりも出来る。だから悩んだわ。どうして私だけが……って。でも今はわかった。幸い時間だけはたっぷりあったから、考えて考えて悟ったわけ。人間は皆一人では完全じゃ無い、誰かのために生まれて来るんだ……って。親、子供、恋人、妻、夫……みんな誰かのために。克己は咲也さんのために生まれて来た。彼が生まれる時に置き忘れてきた多くの大切な物を補うためにあなたは生まれ、定め通り出会った。そして私は……私は克己のために……今この時のためだけに生まれて来たのよ。克己のためって事は、咲也さんのため……そう考えたら素敵だわ。私の魂が消えても、体は彼の側に居続ける。たとえ心は克己でも、物質的には環という存在は残る。克己は身体を、私は魂を……一個づつ失ってプラスマイナス0。丁度一人分の人間になる。こんな私でも半分は咲也さんの役に立てる――――だから克己、私の存在意義を認めてくれるなら手を放して戻るのよ。あなたが言う事きいてくれなきゃ、私は何のために生まれて来たか本当にわからないじゃない。それにね、もう私疲れたのよ。こんな生き方に……」
「……」
 環はそっと克己の腕を押し退けた。
「さよなら克己――――」
 ばちっ、と青い火花が弾けた。それは環が攻撃的な気を放ったせいだった。驚きと衝撃で克己が一瞬ひるんだ隙に、環はするりと戒めていた腕をすり抜けた。
「駄目っ! 消えちゃ嫌だ! 環!!」
 環は克己を突き放し、下へと押しやった。
 克己の方を向いたままの彼女は微笑みを浮かべていた。穏やかで哀しい微笑みを……
 血の通った身体と繋がった糸は克己を捕らえ、克己を引き寄せてゆく。抵抗しようともがこうと、逆らえなかった。そして環もまた次第に光の方へと流されて行き、二人の距離は離れていった。
「あ、そうそう、最後に一つ言い忘れてた。目が覚めたら御神木の前に行きなさい。咲也さんを助ける方法が分かるわ」
 環のもう遠くなった声が言った。
「環……たまき――――!!」
 克己の落ちて行く速度が急速に早まった。身体が目覚めようとしている。
「咲也さんを……」
 最後に微かな環の声を聞き、至福の表情を浮かべ光に呑み込まれていく姿を朧気に見た気がする……だがそれも定かでは無い。凄まじい失墜感が克己を捕らえ、彼の意識はそこで途切れてしまった。
 そして……次に我にかえった時、克己は物質的世界で生きた人間として目を覚ましたのだった。
 環の身体で。



 遠くで一番鶏が鳴いた。
 空は完全に明るくなり、夜の澱んだ空気は消え、清涼な朝の風が庭先から流れて来る。室内に集った人々は一言も発せず、身動ぎもせずに目の前の奇跡を見つめていた。
「……魂のすり換え……」
 やっと和馬が呻く様に呟いた。
 沈黙が破られ、続いて珠代が未だ信じられないという表情で少女の顔を両手で撫で、まじまじと覗き込んだ。その目にはまた光る物が滲んで来た。
「本当に克己なの?ああ、夢や無いわね?」
「……僕も信じられないけどね。だから母さん、泣くなら環のために泣いてやって。
 あそこにあるのはただの脱け殻なんだから」
 環……否、克己は悲しく言って、静かに見つめている父に問うた。
「ねえ、父さん?僕は素直に受け取っていいんだろうか?生き返った事、もう一度チャンスを与えられた事を。だけど悲しい……悲し過ぎるよ。これが定めだなんて。信じたく無いよ!そんなのってある?幾らこの身体が空っぽだったとしても、ちゃんと感じて、考える、完全な人格としての環はいたんだよ、別の世界に。なのに――――─」
 やや考えて俊己は答えた。
「だからこそ……お前は再度の生を精一杯生き、戦い、咲也君を助けなくては。それが環の存在したという証になるのではないのかね?環は言ったんだろう?お前のためで無く、咲也君のためだと……それが環の本心なら、その切ない想いを叶えてやってはどうだね?親のわしでさえ、環に心があると気付いてやれなんだ……どんなに寂しく、辛かった事か。だが、環は自分に定められた運命を知っていて、それに殉じ、後を託していったのだ。今度は克己、お前が定められた道を行く番ではないかね?」
「父さん――――」
「それにな、決して環は死んだ訳では無いよ。お前達は二卵性とはいえ双子。別れ別れになっていた半身が集まり、元あるべき姿に戻ったと考えればいい。そして……もう一つの運命の半身のために、お前は戦わなければ。振り向いたり後悔をしていては環は余計報われぬ。今はこれ以上は上手くは言えんが、お前にもわかるだろう?」
「……運命の半身のために……」
 まだすっきり割り切れた訳では無い。しかし今は、戦いの最中にいる今この時は、悩んだり振り返っている時では無いのだ。環の意思に報いるために……そう言い聞かして。
「わかったよ、環……姉さんに出された宿題をやり遂げるまで僕は振り返らない。僕達の運命の半身のため、今はそれだけを考えて――――それが環の意思ならば」
 克己は顔を上げ、涙を拭いた。


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まいるどタブレット小説 Ver1.13