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失踪~しっそう~ - 二

2015/02/16 13:41

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 克己が欠伸を噛み殺した時、白衣の医師が声を掛けてきた。
「橘さんのご家族の方ですか?」
「家族ではありませんが……代理の者です」
「そうですか。ではこちらへ」
 母子は医師に従って後に続いた。
 廊下を行きながら、医師が困惑したような口ぶりで、
「なんとか持ち直して小康状態が続いてますので命の心配は無くなりましたが……」
 二人がほっとしたのは言うまでも無い。しかしまだ続きがあった。
 エレベーターを待つ間、医師は後を続けた。
「今から申し上げる事は信じ難い事でしょうが……」
 来たぞ、と克己と珠代が顔を合わせる。
「正直、私も戸惑ってるんです。警察の方も同じでしょうよ……とにかく今まで見た事の無い症例で───運ばれて来られた時は出血多量で大変危険な状態だったんですが、いくら調べても外傷がみつからないんですよ」
「傷が無いのに……出血多量ですか?」
 最初から人間の仕業で無い事はわかっている。覚悟はしていたものの、唖然として克己は訊き返した。慌てて記憶中枢の中からそれに該当する物の怪を探した。傷無く血を奪うもの……最初に浮かんだのは吸血鬼。
 だがそれははずれだった。
 医師は更に恐るべき回答を与えた。
「いえ、傷はありましたよ。ただし内側だけ……内臓はかなり損傷が激しかった。その傷というのが問題でして。まるで……私も信じられない。しかし決して冗談などでは無く、まるで……そう猛獣に引っ掻かれたような爪痕なんです」
「……」
 興奮してきたのか。医師は二人に構わずに声を少し大きくし、しきりに汗を拭いながら続けた。頬が紅潮している。
「もう一人の運転手も同じでした。こちらは心臓を一掴みって感じで。くいこむ様に爪痕が残ってました。それだけでも即死だったろうに、胃も腸も、骨までもずたずたになる程引き裂かれてた。警察はやれ殺人事件だ、犯人は誰だなんて言ってますが、こんな真似が出来る人間がいますか? いたら教えてほしいですよ。皮膚に傷一つ残さず、中身だけを破壊する腕があれば世界一の外科医になれますよまったく……あ、すいません。ご婦人と小さい子供さんの前で私とした事が」
 人の良さそうな中年の医師は我にかえったらしく苦笑いを浮かべてぺこぺこ頭を下げた。
 ややひっかかるものがあったが、克己は無視して、
「人間以外の仕業だとお思いですか?」
 そう真面目な顔で訊いた。
 医師は困った様に眉を上下させて、口を歪めた。しばらく間を置いて大きな溜め息。
「医療という現実の最前線にいる者の言う事では無いが……そうとしか考えられない。私は迷信深い方では無いし、オカルト趣味でも無い。だがそういう超現実的なものを全て否定も出来ん。病院に長いこといれば不思議な事も多々あるしね。事実、目の前であんなものを見せられたら尚更だよ。信じないわけにはいくまい」
 話をしている内に雲母の病室の前にいた。
 丁度看護婦が出て行くところだった。
「ご苦労。どうかね?」
「変わりありません。あのままです」
 扉を開ける前に医師が勿体ぶった前置きを付け足した。
「まだ意識は無い。話は出来ませんよ。それに……まあ、一目見ていただければわかると思いますが。驚かない様に」
 克己と珠代は緊張に身を引き締めた。
(雲母さん――――)
 ドアが開かれ、彼等は病室に踏み入れた。
「こちらへ――――」
 医師に促され、ベッドに横たわった雲母を一目見た瞬間、克己は立ちすくんだ。横で母が息を呑むのがわかる。
 医師が前置きした意味が瞬時に理解できた。
(ああ――――!!)
 痛々しい傷跡はどこにも無い。しかし蝋の様に青白い雲母の顔は、目を大きく見開いて形容し難い表情を呈していた。
 引きつってはいるが、それはあきらかに笑みを浮かべているではないか。
 恐怖に貼り付いた笑顔を。


 11時を過ぎても、誰も戻って来ない。
 今日も晴天でどんどん気温は上がり、外では蝉が気になりだすと我慢できない程、騒がしく鳴き競っている。
 咲也は何するでも無く、縁側に座って克己達の帰宅を待っていた。
 大体、他人の家である。待つといっても特にする事も無い。本でも読もうかとも思ったが、気に懸かる事が多過ぎていまいちその気にもなれない。かといって、ずっとこのままじっとしているのも芸が無さ過ぎるし……
「そうだ、鳥居から出なけりゃいいんだ」
 咲也は神社を散策しようと思い立った。
 着いてすぐ夕立だったし、徳次の一件もあってまだ詳しく見ていない。限られた広さではあるが、探検がてら少し歩いてみよう。
 庭をぬけ、居住空間と神聖な神社の境内を隔てる垣根を越え、玉砂利の敷かれた境内を真っ直ぐに社まで伸びている石畳の道を周囲を見渡しながら進むと、わりに広い事に気がついた。まるで無名で、地元でも春と秋の祭の時しか訪れる人はいないと克己は言っていたが、結構趣があって立派に見える。人を拒絶しているのはこんな高所にあるからだろう。今は枝打ちがしてあり、下からも鳥居が見えたが、いつもは木葉に覆われて段の中ほどからは見えないのだ。また地元といっても近くにあまり人家も無い。変わっているのは神社は平地にあるか、高所にあっても入り口の所……段の下に鳥居があるのが普通だ。それは咲也にすらわかった。まるで故意にその存在を隠す様に、木々の合間にひっそりと佇んでいる神社。
 その訳は朽ちかけた立て札に書かれてあった。明治維新の際の神仏分離令以前は比叡山が近いこともあって、一時期寺に回収されていた事があるという。社が今の建物になったのもそのせいで、道理でどちらかといえば寺の本堂を思わせる内装だったと咲也は思った。
 あの白い壁……あれも寺院時代の名残なのだろう。その折、人目につかない今の位置に鳥居も移されたのだそうだ。
「ふうん……何かよくわからないけど」
 それよりももっと深い意味がありそうな気もしたが、どうでもいいや、と咲也は再び歩き出した。
 灯篭が並んだ一角を過ぎると質素な社務所らしい建物があった。その前に老婦人が一人日傘を杖に立っていた。
(へえ……お参りに来る人いるじゃん)
 と、ばち当たりな事を考え、老婦人に会釈して前を通り過ぎようとした時、
「あ、ちょっと、もし?」
 老婦人が咲也を呼びとめた。
「はい?」
 眼鏡を掛けた小太りの老女はこちらを向いた咲也の美貌におや、という顔をしたが、すぐに困った様に、
「ここの坊ちゃんかと思うたらちごてんね。すんませんなぁ」
「何かご用だったんですか?」
「ええのよ。ここのお守りはご利益があるよって、孫に持たせよう思て貰いに来たんやけど、宮司さんも奥さんも今日はいやはらへんみたいやし。また来ますわ」
 若いのに神さん拝んで偉いね、と咲也に言って去って行った後姿を見送りながら、さぞあの石段は老人にはきつかろうな、と心が痛んだ。しかしそれでもここへお参りに来る人がいることが、少し我が事の様に誇らしい気もした。その様子を見守ってから、無人になった境内を再び進み、狛犬の横を通り抜けて、まず正面の社を拝んだ。
 擦り切れそうな綱は多くの人に振られてきたのだろう。がらがらいう鈴の音はひどくノスタルジックだった。賽銭は持っていなかったが、きちんと“二礼二拍一礼”の正しい所作を守った。これ位は咲也だって知っている。尤も、克己に教わったのだが。
 同じく横手の末社もお参りして、今度は裏手に回ってみる事にした。徳次の埋葬の際に通ったが別に何も無かったのは知っている。だが、鬱蒼と繁った杉並木が見事で、その中でも一際立派な木には注連縄がしてある。神聖な木なのだろう。樹齢何年かは見当もつかないが、地面から這い出す生き物の如く露出した太い根の力強いこと。長い歳月、風雪に耐え、この神社を見守って来たに違いない。
 ふと、咲也はこの木に触れてみたい……という欲求に駆られた。何故かはわからないが、この大きな木を見ている内に死んだ母を思い出したのだ。とはいえ随分小さい頃に亡くした母の記憶など咲也は殆ど持っていなかった。継母が先妻の話をされるのを嫌がったから父も家では話さなかったし、写真も殆ど無いため、顔すらはっきりしない。
 それでも朧気ながら、とても美しい人で、優しく物静かな、それでいて包容力に満ちた女性だったと思う。この木からもそんな無限の包容力みたいなものを感じたのだ。
「さわったぐらいじゃバチ当たらないよね」
 辺りを見回してから、そっと手を触れた。
 木肌はもっとごつごつしているかと思った
ら、思いの外すべらかだった。優しく、暖かい感触に、咲也は両手を広げて抱き込む様に身を寄せた。
(母さん――――)
 神木から体に柔らかなエネルギーみたいなものが伝わって来る気がした。木の思念かもしれない。それは母が愛し子を抱擁する優しさで、咲也を包み込む様に広がっていく。
 咲也は美しい彫像の様に、しばらくの間身じろぎせず、目を閉じて大木に身を寄せ、母に抱かれた気分を味わった。今しも木がこの類稀な美少年を、木枝の腕を伸ばして抱きしめ返しそうな妖しくも美しい構図。
 たっぷり、一分近くもそうしていただろうか。ふと、咲也は人の視線を感じた。
 くすくす……という笑い声。慌てて木から離れ、振り返った。
 白い衣装が社の向こうにちらりと隠れた。
「誰?」
 またくすくすと笑い声だけが聞こえる。
 咲也はその後を追った。木は名残惜しそうだった。

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まいるどタブレット小説 Ver1.13