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環~たまき~ - 一

2015/02/17 06:58

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 珠代は待った。
『心配するな。必ず無事戻って来る』
 夫と息子はそう言い残して出ていったが、彼女には暗い予感があった。
 もう二度と会えない様な気がする……
 先刻の電話……雲母からだった。
 曖昧に誤魔化されたが、思いがけない人間からの連絡は、珠代の不安に拍車をかけた。
 相手は未来を見る占い師。
 重傷を負い関わりを絶った筈の彼女が何故今頃――――
(何か良くない事でも見えたのでは?)
 その考えを打ち消す様に首を横に振る。
「駄目やね、縁起でも無い事考えたら。お父さんも克己ちゃんも無事に戻って来るに決まってますやんね。そうですやろ?」
 無論、返事は無い。
 語りかける相手は環だけ。喋る事も目を開ける事も無い、人形の様な娘。
それでも不安を忘れるために何か喋っていないと気が狂いそうだった。
「……そやけど遅いね。もう夜が明けるゆゆうのに……あんたには何もかもわかってるんやない? ねえ、環ちゃん?」
「……」
 無言の返事。
 静かな寝顔をじっと見つめ、泣きたくなるのを珠代は必死で堪えた。
 どのくらい時間が経ったろうか。
 ずっと胸前で手を組んで俯いていた珠代の耳に、からからと玄関の戸の開く音が届いた。
「帰って来た!」
 なんだ。やはり悪い予感は気のせいだったのだ……珠代は安堵の息をつき、次の瞬間には走りだしていた。
「おかえりなさい!」
 嬉しさを押さえきれず、廊下を駆け抜けて迎えに出た珠代の目に入ってきたのは、夫でも息子でも無かった。
 僅かに開いた戸口の向こうに立っていたのは、パジャマの上にガウンを羽織った女性。
「橘さん……」
 雲母はそれ以上戸を開ける事も無く、眼を伏せ暗い表情で黙ってじっと立っている。
「病院抜けて来はったんですか? 体の方はもう大丈夫なの?」
 声を掛けても雲母は答えない。珠代の胸に再び不安が過った。
 彼女は一人では無い様だ。戸の向こうに人かいるのがぼんやり見える。
「うちの人らも一緒ですか?」
 雲母は頷いた。
「どうしはったん? 早よお入りやす」
 雲母は小さく頷き、確認する様に後ろを振り返ってから思い切って戸を全部開いた。
 俊己、克己、和馬……そして一人多いが見慣れた男達の顔。
 だが、出ていった時とあまりに変わり果てた彼らを見て珠代は動けなかった。
 見るも無残にぼろぼろになった着物、幽鬼の様に青ざめた顔、無数の傷……俊己は、これも全身傷だらけの和馬の隻腕に支えられ何とか立っている状態。
 そして克己は……
「すみません! 私のせいで――――」
 雲母が跪き土間に着く程深く頭を下げた。
 その声も姿も、珠代には届いていなかった。珠代に見えていたのは息子だけだった。
「……克己ちゃん?」
 克己は医師に抱かれ、静かに目を閉じていた。血に汚れた顔は蝋の様に白く、手足は力なくだらりと垂れている。
「車の中で息を……病院よりも家に帰すほうが良いかと」
 医師の言葉が遠くで聞こえた。視界はぼんやり霞んでいく。
(死……んだ?)
 珠代の五感が停止した。何も聞こえず、何も見えない。しかし頭だけは動き続けた。
(嘘に決まってるやない。克己が親の私より早く死ぬわけ無いもの。これは夢よ。まだ本当は誰も帰って来てなくて、待ちくたびれて眠ってしまったのね。そうに決まってる……ああ、こんな縁起でも無い悪夢から早く醒めなくては!)
 珠代は何故か可笑しくて笑いだした。
「……さん? 奥さん!」
 激しく肩を揺すられ、珠代の視界に心配そうに覗き込む青年の顔が飛び込んで来た。子供じみた傷だらけの大きな顔。和馬。
 珠代の目から涙がぽろぽろと流れ落ちた。
「……和馬さん? なあ、嘘やゆうて。お父さんも!」
 二人は何も言わず、眼を伏せただけだった
「嘘――――」
 認めたくなかった。だが心の何処かでああ、やはり、と思っている自分に気がついて何よりその事に珠代は愕然とした。
 履物も無視して彼女はふらふらと動かない息子に歩みよった。そっと手を触れる。
 まだ僅かに温かい頬。だが青ざめ、閉じられた瞼は開く事は無い……じわじわと実感が湧いて来て、哀しみと絶望が爆発し、珠代は克己に取りすがって泣き崩れた。
「とにかく奥へ寝かしてやろう」
 涙声の俊己の言葉をきっかけに、何とか珠代を克己から離し、一同が奥に上がろうと動き出した時……彼等は始めて廊下の先に小さな人影が立っている事に気がついた。
「は……?」
 ぽかんと和馬が口を開けた。雲母、医師、俊己、そして珠代さえが唖然とする中、その人物はすたすたと歩み寄って来て、
「もういい? ずっと見てたんだけど何だか声を掛け辛くて。本当は急ぐんだけど」
 愛らしい声で首を傾げて言った。
「克己君……」
 小さく雲母が呟いた。それはまさに克己だった。大きな目、背丈、口元、首を傾げる角度、仕種……何をとっても同じ。違うところと言えば肩で切り揃えたおかっぱ頭と、着ている着物くらい。だが勿論克己では無い。
 環。克己の双子の姉。
「環? あんた……」
 珠代の涙も引っ込んでしまった。
 生まれてから十六年間、一度も喋る事も動く事も出来なかった環……彼女が一人でここまで歩いて来て、おまけに喋っている!
「お母さんもお父さんもそんな顔しないで。今、克己がそんなだから、私の出番が来たって事。ねえ、それよりお願いだから今すぐ私と克己と二人っきりにしてくれない? 克己は死んだけど、まだ克己はいるわ。今なら間に合うから」
 環は謎の様な言葉の後、にっこり微笑んだ。

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まいるどタブレット小説 Ver1.13