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大いなるもの - 二

2015/02/17 09:57

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「儀式を進める。杯を此処へ」
 誰もいない空間に向かい、彼は命じた。
 祭壇の上の金の杯は宙に浮かび、主の前へとやって来た。勿論、ひとりでに飛んできたわけではない。人はいないが、ここには沢山の妖魔達がいる。特に、この場所に上がる事を許され、麗夜の助手を務めているもの達は妖しの犇めき合う京都にあって、その中でも一握りの選ばれた格の高い物の怪ばかりだ。杯を手にして傅いたのは、漆黒の鳥の翼と、哲学者の瞳を持つ蛙だった。
「短剣を」
 今度の命令に応じたのは、艶やかなふさふさとした尾が自慢の、真っ白の狐。
 麗夜は短剣を受け取ると、切れ味を試す様に、刃に親指を当ててみた。白い指先に赤い珠が盛り上がって来るのを、満足そうに確かめて麗夜は薄く笑った。
「咲也に清めの香を」
 ずっと規則正しく振り続けていた香炉を、咲也の頭の上で円を描く様に回したのは、巨大な蝙蝠の羽根を生やした双頭の猫。
 麗夜は、小脇に挟んでいた金の杖を空中に置くと、片手で短剣を高く掲げ、もう一方の手で咲也の左手を掴んで、天を仰いで呪文を唱えた。その呪文は異国の言葉であったが、周りの妖しの部下達にもわかるのか、一様に脅えた様に身を竦めた。彼等だけではない、この街中の物の怪、霊、大気そのものに緊張が走った様だった。脅えていないのは、最も近くにいて、呪文の対象となっている咲也くらいだろう。
 呪文を唱え終えると、麗夜は剣を咲也の手首に当てた。少し刃が食い込んでも、咲也は顔色一つ変えない。
「……いかんな。このままでは使えんか」
 思いとどまって麗夜は一旦、刃を収めた。
「まったく、手間のかかる事だ」
 愚痴をこぼして、短剣をもう一度手下に預けると、突然、麗夜は今までの扱いとは一変して、ひどく乱暴に咲也の胸座を掴んで引き寄せ、その頬を平手で勢いよく引っ叩いた。
 ぱしっ! ぱしっ! 一回、二回。かなりの力で叩きつけたので、みるみる咲也の頬に赤く手の痕が浮かびあがる。
 それでも、咲也は何の抵抗もせず、表情も変えず、痛いとも言わない。無抵抗の相手に何となく嗜虐心を刺激され、麗夜は更に力をこめて咲也の頬を力一杯叩き続けた。見かねて九尾の狐と翼の蛙が目を背けた。
 三回、四回……唇の端が切れて血が滲んでも、麗夜は手を緩めなかった。更に数回、往復で打ちつけると、脳震盪を起こしたのか咲也はぐったりして、目を閉じてしまった。
 麗夜が手を放すと、力無く床に倒れた。
「ふん。少しやりすぎたかな」
 麗夜は吐き捨てる様に言って、咲也を抱き起こし、今度は軽く、ぴたぴたと頬を叩いた……そこで始めて、咲也が反応を示した。眉を微かに寄せ、防御するみたいに手を顔の前にやったのだ。
「痛いかね?」
 自分がやったわりに、優しい口調で麗夜は訊いた。
「……」
 返事は無かったが、光の無い瞳に涙を浮かべ、血の滲んだ頬に手を当てて、痛みを感じた事を訴えている。感覚が戻り始めたのだ。
「すまんな。契約の血には痛みを伴わなくてはならんのだ。そういうきまりでね」
 その声が聞こえたかどうか。相変わらず無感動に見える咲也だったが、腫れ始めた頬に麗夜の手が触れると、びくっと身を竦めた。
「もう叩かないよ……これでいい」
 麗夜が一撫ですると、痛々しかった咲也の頬は何事もなかったように綺麗になった。
「さて、やりなおしだ」
 その声に、狐はすかさずもう一度短剣を差し出し、蛙は杯を掲げなおす。再び妖しい呪文が響き始めた。
「……ドゥレィナ・プレィジョラ・ドゥラメン……ウン・サバライア……」
 鈍い光を湛えた刃が、咲也の手首に当てられた。数体の妖魔が何処からともなく現われ咲也が暴れないように固定した。
 今度は、麗夜は迷わず短剣を押し引いた。
 ざっくりと、骨まで届くほどに、刃は深く切れ込んで一気に引き抜かれた。
「はぅっ……」
 仰け反った咲也の口から、小さく悲鳴に似た声が漏れた。
 勢いよく鮮血が溢れ、それは下で翼の蛙が掲げる金の杯へと注がれた。あっという間に容器を満たしていく血の滝を、妖魔達が凝視していた。ある者は舌なめずりして、ある者はうっとりと。
「あ……ああ!」
 咲也は激痛に身を捩ろうとするが、押さえつけられて逃れる事は出来ない。
「綺麗な血だ。いまどきの若者には珍しく、まだ穢れも知らんのか。この器量で……本当にこの世の奇跡だな、君は」
 少し呆れたみたいに言って、麗夜は血飛沫がかかった手の甲を口元にもっていき、一舐めした。なんとも妖艶な仕種だった。
 まさに魔法の儀式にふさわしく、杯が完全に血で満たされると、出血はぴたりと止まった。それどころか深い切傷も、跡形も無く消えたではないか。押さえつけていた妖魔からも、激痛からも開放され、咲也は糸が切れた様に崩折れた。多量の失血で顔色は蒼白だ。それを横目に、麗夜は妖魔達に向かって厳しい口調で命令を下していた。
「手はずはわかっているな。急ぎ、その杯を持って街の心臓へ。残りは最後、俊己達の妨害でただ一つ置いたままになっている、聖柱を燃やして、魔界の印に塗り替えること。猶予は無い。心してかかれ」
 傅いていた異形の影から返事らしき声があがり、麗夜の手が振られるのと同時に二手に分かれて飛び立っていった。
 妖しの手下達を見送って、麗夜は咲也の方に向き直った。膝をつき、両手でやっと体を支えているといった感じの咲也は、青い顔で俯いていた。肩が小刻みに震えている。
「これで半分終わった。後は魔界の扉が開くのを待つだけだ。それも間近か――――君はもう永遠に何の苦痛も感じないし、心配事も何もなくなる」
 妖魔達に対するのとは明らかに違う、優しい口調で語り掛け、麗夜は咲也を支えようと肩に手をかけた。
 その時だった。
「……さわるな……」
 顔を伏せ俯いたまま、咲也が低く言った。小さな声だったが、はっきりした発音だ。
「咲也? 正気に戻ったのか?」
 少し驚いた様に麗夜が訊くと、咲也は下を向いたまま肩を震わせた。それが笑っているのだと気がつくと、麗夜は訝しんで、
「何が可笑しい?」
「だってさ……正気に戻ったのかだって? ふふ、可笑しな事を。自分が目覚めさせたくせに。あれペイモンの魔法の短剣でしょ? 痛かったよ。すっごく。だから、目が覚めちゃった。それより……触らないでって言ったはずだ。手を放してくれる?」
 妙に無邪気な口調で、笑いながら咲也は言った。姿形はそのままだ。俯いたままの血の気の失せた白い顔も、儚い肩も。しかし、目の前にいる咲也が、別人と入れ替わったみたいなこの違和感は一体……思わず麗夜は咲也から手を放した。
「お前は……誰だ?」

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