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夕立~ゆうだち~ - 五

2015/02/16 08:12

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 七月の夕方の四時といえば、まだ日没まで何時間もある筈なのに、その日の京都は水の上に墨汁を流したみたいな厚い雲に覆われ、夜のような暗さだった。ほんのつい先程まで夏の陽光降り注ぐ晴天だったから、天気予報も指摘しなかった突然の激しい夕立に、傘を持たない人々は一時の雨宿りのつもりでよその軒に入ったのはいいが、一向に小降りになる気配もなくますます激しくなっていく雨に途方に暮れるのだった。
 そんな中、人通りも多い中京区の繁華街の一角で突然、空き家から火の手があがった。土砂降りの雨の中でも消える気配も無く、燃え広がろうとする炎に、駆けつけた消防隊員達は薄気味悪さを感じるよりも(またか)という思いのほうが強かった。
 今日はこれで五件目だ。
 近頃、京の街では放火とみられる不審火が相次ぎ、連続放火事件として人々を恐怖に陥れていた。白昼堂々、しかも目撃者も皆無の状況で、先月末から実に四十二件という凄まじさ。内、三十六件は今月に入ってからで、いずれの事件でも留守宅やゴミ捨て場、空家など火の気の全く無い所から突然出火しており、多い日は一日に三・四件などはざらで、場所も北から南までばらばらに、時間差もそう無く起きていて、複数の犯行か便乗犯かと言われているが、警察の捜査も虚しく犯人の目処もたっていない。幸いのところ未だ犠牲者は一人も出ていないが、全くの無差別な放火に、明日は我が身か……と京の街の住民達は眠れぬ夜を送っているのだ。
 それにしても、今日はもう五件。随分多いじゃないか。一昨日に並ぶタイ記録だ……
激しい雷雨の中で消火に励む消防隊員や見守る野次馬達は口々に囁きあっていたが、彼等は知らなかった。僅か数分の後、その日六件目の火の手が上がったことを。

「鬼が絵から?」
 母親の叫ぶ様な言葉に、克己が怪訝そうに聞き返した。いかに克己が超常現象に慣れているにしても、あまりに途方もない事で、俄かには信じられなかった。
 鬼が絵から出てきた、などとは!
 珠代は口にしただけでも恐ろしい……という風に、両肘を固く抱きしめてがたがたと身を震わせている。決して嘘をついているようには見えなかった。
「ほんまえ。ほんまえ、克己。嘘いうてへん――――いつものように神さんにお供え、徳次さんと持って行ったんですわ。そしたらおにが……鬼が徳次さんを……」
 後は続かなかった。思い出したのか、大きく目を見開いた後、珠代は糸の切れた操り人形のように床に崩れた。気を失ったのだ。
「母さん!」
 珠代を抱き起しながら、克己と咲也は顔を見合わせた。これは、普通じゃない。恐ろしい事が起こったのだ。気を失う寸前の珠代の顔! 人にあれだけ恐怖に怯えた表情をさせえるものとは――――
「徳次さんってさっきの……一体何が?」
 咲也が不安そうに呟く。
「咲也、母さんを頼む」
「え?」
「僕、ちょっと見てくるよ」
 言うが早いか、気を失った母を咲也に委ね克己は身を翻した。
「克己!」
 咲也が止める間も無く克己は外へ飛び出し、社の方へ走っていく。自分もついて行きたかったが、こんな状態の珠代を放っておくわけにもいかず、いつもの経験からいっても何の役にもたてず、かえって足手まといになるのがオチだと、仕方なく咲也は克己に任せる事にした。
「……」
 抱いている珠代が、何か呟いているのに気付いて、咲也は珠代の方へ注意を移した。
「おばさん、気がついたの?」
 咲也が問い掛けたが、珠代はまだ正気に戻らぬまま囈を繰り返している様だった。
「……じさんを……ころし……た」
 不明瞭だったが、こう聴き取れた。
「え?」
 一瞬、何の事かわからなかったが、さっき珠代が言いかけて途切れた言葉を思い出し咲也はその恐ろしい意味を理解した。
 慌てて土砂降りの外を見たが、既に克己の後姿は無かった。
(克己――――!!)
 珠代はこう言ったのだ。

 鬼が徳次さんを殺した……と。

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