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鳥篭~とりかご~ - 五

2015/02/17 07:29

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 鮮血の様に真っ赤に染まっていた空が、少しずつ色を変えようとしていた。紫に近い、形容しがたい暗い色に。それは不安に胸を焦がしながら見上げる人々に、一様に煮えたぎる溶岩が冷えて固まっていく様な印象を与えた。事実、気温も下がりつつある。
 だが、誰もがこれで終わったとは思わなかった。誰もが、これからこそが、真の脅威の始まりなのだと思いこそすれ。
「ついに炎の時が終わったわ。次は……」
 長い石段の上の鳥居の下で、二人の女性が京の街を見おろしていた。
 未来を予言する夢占い師雲母と、克己の母であり、また、この異変の仕掛け人である魔術師麗夜の妹でもある珠代。
 二人とも髪は乱れ、着衣も顔も煤け、手にはそれぞれバケツが……といういでたちで疲れ果てた様に立ち尽くしている。
 克己達を見送った後、彼女達にももう一つの苦しい戦いが待っていた。それは一旦終結したものの、勝利を収めたとは言い難い結果に終わった。
 彼女達の戦いの相手は炎だった。
 俊己の張りめぐらせた結界と神木の力に守られたこの神社は、始めどこよりも安全に思われた。近くに住む人々も数十人避難して来ていたが、酷暑も霊障もそう気にせずにすんでいた。ここに逃げ込んで来て幸運だったと誰もが思っていたに違いない。だが反面、妖魔達の総攻撃の対象となる要素も、どこよりも多いのも事実だ。古の時より、京の街を人知れず妖しのもの達から守って来た瀬奈家は、魔物達にしてみれば仇なのだから。
 あまり霊視の利く方では無い珠代や雲母にもわかる程、妖魔達の攻撃は激しかった。上空、境内の周りなどから電気のスパークの様な音が聞こえ、霊や魔物達がぶつかった時に生じるエネルギーの火花は、青白いドーム状に、不可視のはずの結界の形を浮かび上がらせていた。
 一時間、二時間……ついにドームの一部に亀裂が生じた。そして一筋の黒い稲妻が、境内の神聖な空気を切り裂いた瞬間、御神体の祀られた社が火を吹いたのだ。
 すぐに全員総出で消火にあたったが、相手はただの炎では無い。おさまるどころか、より激しく燃え上がる炎に、今かけている水がガソリンか灯油ではないかと疑ってしまうほどの勢いで、社はあっという間に手の着けられない状態となった。
 そして、命ある生き物の様な炎を前に、なすすべを知らぬ人々は見た。
 赤鬼、青鬼、牛鬼、馬鬼、回転する巨大な火の車輪、牛車に乗った顔の無い公家、人の顔をもつ毛むくじゃらの蜘蛛、鎌や皮を剥かれた逆さ吊りの人間を手にした奇怪な一つ目の入道……燃え盛る炎の中から、ぞろぞろと這い出てくる異形の群れ。百鬼夜行図の絵馬に封じ込められていた、妖しのものたち。
 不思議と、誰も声をあげなかった。
 誰も恐慌をきたしたり、狂乱して逃げ回ったりしなかった。……出来無かったのだ。許容範囲を上回る恐怖に言葉を失い、その身は石像と化した様に固まってしまった。目を逸らすことも、瞬きも忘れて、見入る事しか出来なかったのだ。
 幸いな事に、封印から解き放たれた妖しのもの達は、人間達には見向きもせず、整然と列をなして行進を開始した。その足……足のあるものは半数ぐらいだが……は次第に地面から離れ、結界の綻びをめざして進んで行く。稲妻が突き破った辺りからは、その奇怪なパレードを迎えるように、蛍の光に似た色の細い道がまっすぐに伸びて来て、外へと導いている。
 何百、何千の妖しい影が、ほの光る道を行進して、紅蓮の空に消えて行くまで、誰一人動く事無く息を殺していた。結果、賢明な判断だったと言えよう。騒いだり、気を乱せばせっかく無関心でいる妖魔達が襲いかかって来ていたのは間違いない。対抗出来る力を持たぬ者の、無意識のうちにとった最高の自衛手段だったのだ。
 悪夢の時が過ぎ、始めに言葉を漏らしたのは、誰であったろうか。
「……こんなのさ、見たことある。昔の絵でさ。地獄絵っていうの?」
「でも、ここは地獄じゃない……はずだ。少なくともついこの前までは違った。地獄って死んでから行く所じゃ無かったか? それとももう死んじまったのかなあ」
「みんな一緒にかい? それも変だよ」
 どの声も、どこか拍子抜けしている。平凡な生活で築き上げてきた既成概念とか、常識と、あまりにも相容れぬ状況が事実として現れたとき、それを否定して逃避しようとする力が働くのだろうか。馬鹿げた事かもしれないが、それで発狂したりせずに済むのだったら精神衛生上必要な仕組みかもしれない。
 だが、雲母の一言で、皆現実に引戻された
「……みんな生きてるわ、悲しいことに。地獄のほうからこっちへ来たのよ」
 その後、しばらく人々は燃え落ちていく社を前に、ただ呆然と立ち尽くすのだった。
炎はやがて自ら消えた。空の色に合わせるように……

「ねえ、珠代さん」
 街の方を眺めたまま、雲母が口を開いた。
「絵馬の物の怪たちが、空に消えていくのを見ててね、ある神話を思い出したの」
「?」
「ギリシア神話のパンドラの壺……箱とも言うわね。神が最初に造った人間の女パンドラ……神は彼女に言った。他の何をしてもいいが、この壷の蓋だけは決して開けてはいけないと。でも禁じられた事ほどしてみたくなるのが人間の好奇心で、彼女はその蓋を開けてしまった。壷の中からはありとあらゆる悪いもの……病気、憎しみ、争い、飢え、貧困、恐怖……それらの種が飛び出して、世界中に広がった」
「うちもそのお話は知ってます。ああ、そやけど……」
 珠代は肘を抱いて、ぶるっと身を震わせた。
「神話の時代や無く、今、この時代に禁じられた蓋を開けたのは兄……麗夜なんですね。神話の女性は結果をわかってやった事では無かったろうけど、麗夜は知っている。魔界とこの現の世を隔てる蓋……この街の霊的な結界を取り払ってしまったらどうなるかを。そこから何が出てくるかも。この街から、やがて世界中にひろがって行くゆう事も……それが目的やゆうことなんやろうけど。それが恐ろしい……」
「でもね、気休めかもしれないけど、パンドラの話には続きがあるわ。知ってらっしゃるだろうけど……空っぽになったと思われた壷の中に、ただ一つ、残ったものがあったって。それは……」
「希望……でしたね。たしか」
「ええ。だから、まだ諦めてはいけないのよね。今、私たちにもまだ残された希望の種があるじゃないですか。克己君……奇跡を超えたあの子なら……きっと」

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まいるどタブレット小説 Ver1.13