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鵺~ぬえ~ - 五

2015/02/16 14:12

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 一台の車が京の街を疾走していた。
 運転しているのは白衣の中年の男、そして助手席には寝巻姿の若い女性。
「先生お願い、急いで!」
「わかったよ。まったく……とんでもない患者だな。知らんよ、どうなっても」
 男は医者だった。女の方は数日前に前代未聞の奇怪な症状で担ぎ込まれた彼の患者。
 二人は急いでいた。
「急に我に返ったかと思ったらこれだ。一体夢で何を見たというのかね、占い師殿?」
「……」
(ああ、どうしてもっと早く気がつかなかったのかしら!)
 橘雲母は小さな錦の袋を強く握りしめた。
 瀬奈家に戻るため待たせてあった車に乗った……までは良かった。
 眠気も気力で何とか我慢出来る範囲だった。それなのに車に乗った瞬間、意に反して瞼が下りた。
 完全に眠りに落ちる寸前、朧気ながらこれはいけない敵の攻撃だと意識したが目は開かなかった。突き落とされた様に夢に落ち、未来を垣間見た。今となっては内容は思い出せないが、とにかく決定的な何かを掴み、意識を浮上させようと懸命に試みた。意外と簡単に目は覚めた。
 だが目を開けた彼女を『あれ』が待っていた
 ああ、あの恐怖の体験……運転手は目の前で殺された。幸か不幸か彼女は握りしめた御札の力に守られ死には至らなかったが、いっそ一息に死んだ方がましだったかも……何か書き残した様な気もするが、それは夢の中の出来事だったのか現実だったのか、もう区別はつかない。深層心理にまで入り込む妖獣に凌辱され、嬲られ、引き裂かれた……何度も何度も。時間も何も無い精神の世界で永遠に悪夢は続くかと思われたが、ふいに獣は心の中から消えた。それこそ、克己と珠代が病院を訪れた時であった。正確に言えば克己がその頬に触れ、お守りを置いた瞬間だ。とはいえ精神的なダメージから完全には立ち直れなかったし、何もかも忘れ、予知夢も見ずにそのまま戦線離脱するつもりでいた。
 だが今夜。消灯後に落ちた眠りは夢を伴った……。
 雲母は立ち上がらずをえなかった。
 不吉な夢。すぐさま病院の静止を振り切って夜中の街へ飛び出し、瀬奈家に電話をかけた。そこで始めて咲也の事を知り愕然となった。男達はすでに出掛けた後……
 ああ、夢の通りに進んでいる!
 何とか理解のある主治医を説き伏せ、協力を得た。彼は克己と面識のある人間だ。
(お願い間に合って!)
 珠代の話だと克己達は御所に向かったとの話だったがもういなかった。すべて夢の通りだとすれば、化け物を追って行ったのだ。もはや一刻の猶予も無い。
「橘くん!」
 突然医師が叫んだ。
 指差された先を見て雲母はあっ、と声を上げた。車のヘッドライトと街灯に照らしだされた路面に誰か倒れている。
 すぐさま車を止め、職業人らしく医師が飛び出した。雲母も痛む体を押して駆け寄る。それはよく知っている人物だった。
「瀬奈さん!?」
 あちこち破れてぼろぼろになった和服の中年男はぴくりともしない。
 医師が胸に耳を当て生死を確かめる。
「息はある」
「ああ……」
 よく見ると散乱した得体の知れない粘液、夥しい数の妖しい屍、折れた街路樹などがここで起きた出来事の壮絶さを物語っていた。
 麗夜の策略に嵌まり、霊の攻撃を一身に浴びながらも俊己は懸命に戦った。払っても倒してもとめどなく襲いかかってくる幽霊、鬼、妖怪達――――秘術も霊能力も使い果たし、ついに力尽きたのだ。発見が遅ければそのうちのたれ死んでいたろう。
「しっかりして下さい!」
 雲母が揺すると俊己の目がうっすら開いた。
「あん……た……は」
「瀬奈さん! 克己君は!?」
「……咲也君を取り戻しに……鵺を追って……」
 俊己は弱々しく北を指さした。
(遅かった!)
 とりあえず俊己を車に乗せ、大急ぎで発進させた。車内で俊己は少し持ち直し、雲母になぜここへ来たかを問うた。
「これを……」
 雲母は答える替わりにある物を見せた。
 見た途端、霊の総攻撃にすら耐えた男がそれこそ一気に絶命する程の衝撃を受けた。
 克己が持っている筈の家伝の御守り。
「これ……は……」
 雲母は手短に克己にこれを渡された経緯、これが自分を救った事、今はその秘められた意味を知っている事を語った。
「これがそんなに重要な物だったなんて克己君も知らなかったんです。ああ、せめて私がもっと早く気がつけば―――」
 俊己は目の前が真っ暗になった。
 持っていると信じて克己を行かせたのに!
「では克己は……?」
 雲母は知っている。だが言えなかった。不吉な夢の結末を……
「とにかく急ぎましょう。まだ間に合うかもしれません」
 気休めとわかっていつつも、医師の静かな声が絶望に沈む寸前の二人を救った。
(お願い――――間に合って!!)

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