HOME

 

環~たまき~ - 九

2015/02/17 07:19

page: / 86

「酷い……」
 克己が呟いた。
「まさに世の末という感じだな。制御するのをやめ、少し手を貸してやるだけでこの有り様だ。この土地がいかに魔界の力が強いかよくわかる……いかに先人達が築いたものが偉大だったかも」
 と、俊己。
 克己と俊己の親子は待機していた霊能者達と合流し、麗夜と咲也を目指して街を進んでいた。
 見慣れた街の日常、人の営みというものは、たかだか一日やそこいらで簡単に壊されてしまう程脆い物だったのだろうか? 彼等が見たのは変わり果てた死の街の景色だった。
 瓦やガラスの破片の散乱する道路には、無人の車が置き捨てられたまま。街路樹は枯れ、街を流れる川は乾ききった底を覗かせ、あちらこちらに力尽きた動物達が躯を晒している。そのほとんどが人に飼われていたペット達。置き去りにされ、逃げ出しても彼等は生きる術を知らなかった。野良犬や野良猫はもう少し強かで、水の代りに他者の血を狙って目を光らせ徘徊している。そのさまは野性そのものだ。より魔物に近い獣本来の姿。動物達だけでは無い。人間もまた。このような時でさえ、いや、この時とばかりに無人になった店舗に押し入り、掠奪や強奪を図る者、自暴自棄になって暴れまわる者がいて、物質的な破壊の跡は彼等の手によるものだ。だがそんな元気のある者は余程鈍感かタフなのであって、ほとんどの人間には動く気力すら残っていなかった。霊能者達の懸命の救助活動にも限界がある。逃げ遅れた者、逃げる途中で家族とはぐれた者、昨夜の寒さをのりきったホームレスも続くこの暑さには耐えきれなかった。ある者はそのまま息絶え、ある者は野良犬の餌食となり、ある者は同じ人間である掠奪犯の手にかかった。命はあっても建物の陰でうずくまって運命の時を待つ人々……その数は少ない数ではなかった。
「……みな泣いてる、訴えてるよ。死んでも苦しみから逃れられないって……」
 霊視の利く身には只でさえ惨い眺めだけで無く、彷徨う無数の死者の霊が見え、彼等の呻き声、すすり泣く声、叫びが聞こえる。もはやこれまでと覚悟を決め、死によって苦痛から解放される事を願った者も、死後の国に旅立つ事も叶わずに地に縛りつけられ、運命を嘆き、哀しみ、生きている者達を憎んだ。敵意さえ漲らせて、周りに漂う霊の呪詛に満ちた視線や声に、克己は思わず目を閉じ、耳を塞いだ。これが現実であり。目を背けたり逃げてはいけないとわかっていても、余りにも耐え難かったのだ。
 俊己も無言で目を伏せ、心の中で魂鎮めの祝詞を唱えていたが、やがて表情を引き締め、合流組を率いていた葛西に向き直った。
「上手くいっておるかね?」
「はあ……指示通り街の各所で『まつり』を行い、僧も読経を続けとります。もう宗派も何も関係ありませんわ。比叡山も本願寺もキリスト教も新興の団体も総動員どすえ。頼まんでも皆協力してくれはりました」
 葛西が汗をふきふき言った。彼はこの暑さの中、克己と俊己の指示した一つの作戦を遂行するために街中を忙しく駆けずり回っていたのだ。教師兼僧侶の目立たない男だが、俊己が信頼を置くだけあってなかなかタフだ。
「ご苦労様でした。で、少しは効果は上がりそうかね?」
 訊かれて、葛西は難しい顔になった。
「それが今のところは……追難、鎮魂のための祈りも経も悪魔払いもあまり効果が上がらんようで。やはり元を経たんと、溢れ出る水は汲みきれませんわ。気力も体力も限界がありますよって」
「元を断つ……か」
 葛西に任せた作戦は、街のあちこちで一斉に|祀(まつ)りを行い、少しでもいいから京の街から物の怪や霊を払おうというものだ。追い詰められた人々に結束が見られたのは喜ばしい事だが、葛西の言うように確かに元を断たねば涌き水のごとく街に溢れ出る霊を止めるのは不可能の様だ。克己も確かめたが、霊界との扉は進入のみの一方通行の状態、そして時まさに盆真っ最中。一年のうちで最もこの世とあの世の境が無くなる時。また、この異常気象で命を落した者も新たに加わり、その数は増える一方。だがそれぞれは力が弱くとも、首魁たる麗夜と戦う時に、先の様に数に任せかかってこられては堪らない。“元を断つ”前に麗夜と咲也まで辿りつけるだろうか?たとえ少しでも――――と一縷の望みを託したこの作戦は失敗と言わざるをえない。
「前途多難だな……」
 克己はため息をつきたくなった。
 一方、雑霊の怖さを身をもって一番よく知っている筈の俊己は、意外なほどあっさりと事態を受け止め。そう気落ちした様子も見せなかった。
「まあ仕方があるまい。すぐには効果が上がらんかもしれんが、最後まで諦めてはいかん。それに……他の手が無いわけでも無いしな……」
「え?」
 克己が訊き返したが俊己はそれっきりもう何も言わなかった。
 一行は克己の指示に従い、合流した地点から南へ下っていた。克己もなんとなくそんな気がするという程度で自信などまるでなかったが、他にあてがあるわけでも無く、雲母や俊己に言われたように、ここは自分の勘に頼ってみる事にしたのだ。皆が信じてついて来るのには少々心が痛むが、外れたといって責める者もいないだろう。
 市街地を行けば、霊だけでなく無差別に暴れる人間に行く手を阻まれる恐れがあるので鴨川に沿って歩く事にしたが、川風は少しも涼しく無かった。河原には首を切られた罪人や武士の霊、水死者の霊、水妖の類で溢れかえっている。全員が霊視の利く団体だけに、呻き声や伸びてくる手を無視して通るのにはなかなか勇気がいった。
「大丈夫かね、克己?」
 克己がよろめいたのに気がついて俊己が声を掛けた。ほとんど動きなれない体の上にこの暑さだ。口には出さないが歩くのがかなり辛そうになってきた。
「うん……平気」
 気丈に笑って見せる顔も痛々しい。
「無理するな。まだ大事な仕事が残ってるんだぞ。どれ、父さんがおぶってやろう」
 これには克己は意表をつかれ、どう反応していいかわからなかった。とても俊己の言葉とは思えなかったのだ。
 今までこんな言葉をかけてくれた事があったろうか? おぶってもらった事などあったろうか? 小さいときから厳しい修行を課し、転んでも手も出してくれなかった父。
「……」
「遠慮するな、さあ」
 しゃがんで後ろ手に手招きする父に、克己は恐る恐る身をあずけた。
 よっこらしょ、というかけ声ともに俊己は立ちあがった。
「……歩ける?」
「馬鹿にしてはいかんよ。お、お前もっと大きくならんといかんな。本当に軽いぞ」
 俊己は笑いながら歩き出した。まだ後ろめたさと遠慮があったが、体は正直なもので足が地から離れた途端にどっと疲れが出た。もはや限界が近かった事もあって、克己はこのまま好意に甘える事にした。
 しばらくして、克己は先の考えを撤回した。
 心地よい振動と満ちてくる安心感。この感じには覚えがあった。
(ああ、僕が忘れていただけなんだ……)
 その心を読んだ様に俊己が小さく呟いた。
「……昔はよくこうして歩いた。お前はいくらむずがって泣いてても、おぶってやると安心したように眠ったよ」
 そう、昔、ずっとずっと小さかった頃、こうしてこの背中おわれて父に甘えた。こうしているとどんなに辛い事も怖い事も何もかも忘れられたのだ……でもあの頃もっと父の背中は広かった。世界の様に。それに父の頭髪ももっと黒かった。
 それに……環の体である自分もまた変わってしまったのだから。
(時の流れ……か)
 何だか泣きたいような気分になって克己は俊己の肩に顔をうずめた。汗と着物の樟脳の匂いがした。
 丸太町通りにさしかかった頃、前を歩いていた一団で小さな騒ぎがあがった。
 克己も慌てて俊己の背から飛び降り駆けつける。
「どうした?」
「いえ、大した事は……急に目の前に小鬼が飛んできたんで驚いただけですよ」
「鬼?」
「鬼ゆうても掌に乗るほどのかいらしい奴ですえ。あ、捕まった」
 葛西が指差した先で一人の男がしゃがみこんで何かを押さえつけていた。きいきいと甲高い声が聞こえる。
「こら大人しくしろ。脅かしやがって」
 男は小鬼の首根を掴むと、人様を驚かした見せしめとでも言いたげに得意そうに俊己達の方へかざして見せた。
 それは奇怪な姿をした生き物だった。赤黒い体毛に全身覆われ、背中には不釣合いな鸚鵡みたいな綺麗な羽根が生えている。体のバランスを考えれば大きめの頭は仔犬みたいに愛嬌があった。
 小さな妖しの生き物はじたばたと暴れて最後には霊能者の手に爪を立て、相手が怯んだ隙を見て逃げ出した。
 そのまままっすぐ瀬奈親子の方へ飛ぶ。
「あっ、こら!」
 止める間も無く、そいつは克己の胸元にはりついた。見上げる小さな顔の金色の目と、克己の目が合った瞬間、克己はその正体を理解した。
 肯定するように、きぃと一声化け物が鳴く。
 慌てて再び捕らえようとする仲間を、克己は苦笑いで制した。
「これは味方だよ。苛めないでやって」
 その鬼は和馬の式神だった。
 少女の手に優しく撫でられて式神は嬉しそうだった。だが、すぐにまた慌てた様子で克己の着物を引っ張り、きいきい鳴き始めた。
「何? 何を慌ててるの?」
 式神は克己の肩に飛び乗って耳元で何か囁いた。早口の高い声は不明瞭だが人語だった。
「ええっ!? 本当?」
 さっと克己の表情が変わった。
「――――大変だ――――」
「どうした? 何と言ってる?」
「鵺が出たよ! 今、和馬さん達が鵺と戦ってるって!」
「なにっ?!」
「式神が元気なのはまだ和馬さんはやられてないって事だよ。場所は……この先、三条大橋に近い河原」
「よし、急ごう!」
 小さな鬼を先導に、克己達の一団は全速力で駈け出した。もう疲れも暑さも感じている余裕はなかった。


page: / 86

 

 

HOME
まいるどタブレット小説 Ver1.13