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鵺~ぬえ~ - 八

2015/02/16 14:18

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 雲母が見たのは和馬に止めを刺そうと鵺がその爪を振り下ろした直後だった。
「な……んで……?」
 ようよう和馬が口を開いた。
 もはやこれまで……と覚悟を決め目を閉じた和馬だったが、とどめの一撃は来なかった。確かに切り裂く音はしたのに。恐る恐る目を開けた彼が見たのは、自分に覆い被さった克己だった。
 温かいものが膝を伝うのを和馬は感じた。大量の血……克己の背は深く抉られていた。鵺が襲う瞬間、克己が間に飛び込んで庇い、和馬の替わりにその小さな体に鵺の必殺の一撃を受けたのだ。
 自分が邪魔をしたために、和馬を絶体絶命の危機に追い込んでしまった事が何の躊躇いも無く克己を動かした。咄嗟の事とはいえ結果はわかっていたのだろうか?
 これは思惑に無かったのか、鵺と咲也=麗夜も動かない。
「か……和馬さん、無事……?」
 克己が掠れた声で訊いた。
 和馬は鵺を前にしている事も忘れ、そっと傷ついた小さな体を抱き寄せた。少し動かしただけでも血が溢れる。咲也の言葉通り鵺は手段を選ばない方法で和馬を始末しようとしていたらしい。この無残な傷は自分が受ける筈だったのだ……骨が露出する程切り込まれた爪痕は肺にまで達しているのだろうか、克己が苦しげに肩で息をする度に、ひゅうっと空気の漏れる音がした。もはや取り返しのつかぬ傷だという事は明らかだった。
 和馬の目から涙が溢れた。
「馬鹿野郎、なんて無茶を!」
「……咲也を……こ……さないで」
「わかった、もう喋るな」
 克己は微笑みさえ浮かべて更に何か言おうと口を開いたが、言葉の替わりに流れ出たのは大量の血だった。
「克己君!!」
 よろめきながら雲母が駆け寄った。
 突然の登場に、和馬は咄嗟に身構え、雛を守る親鳥の様に克己を隠す。彼は雲母を知らないのだ。
「あんたは?」
「敵ではないわ。これを……克己君に返そうと……ああ、でも!」
 雲母は御守りの袋を落とし顔を覆った。
「それは……」
 その錦織りの小さな袋が何であるか和馬は瞬時に理解した。これこそ俊己の言っていた瀬奈家の先祖が鵺を封じたという切り札。
「なぜあんたが?」
 和馬が更に訊こうとした時、ふいに鵺が動いた。余りの事に、二人とも敵を目の前にしている事を忘れていたのだ。
 状況を思い出して、雲母と和馬は克己を庇って伏せた。二人の頭の中に、もう駄目だ、もういい……という、諦めと絶望の思いが広がった。覚悟は出来た。抵抗はしない。克己と同じ様に自分も――――
 鵺は襲っては来なかった。
 恐るべき妖獣は、頭を下げて静かに地に伏せた。その瞳はもう狂気に燃えてはいない。和馬の小刀が刺さったままの尾が、背上の美しい主人にそっと巻きついた。壊れ物を扱うみたいな慎重かつ優しい仕種で。
 妖しい尾に抱えられ、咲也は音もたてずふわりと地上に舞い降りた。呆然と見守る和馬達の視線の中、ゆっくりと滑る様な足取りで三人の方へ歩いて来る。
 誰も止めなかった。
 咲也は克己の元まで辿り着くと、茫とした表情のまま立ち尽くした。血に汚れた親友の顔をしげしげと見つめ、何かを思い出そうとしているみたいにこころもち眉を寄せて。
「さく……や……?」
 気配を感じたのだろうか、弱々しく克己の手が伸びた。その手は方向違いに伸ばされ、空を探っている。もう見えていないのだ。
 和馬は泣きながら克己の手を取って咲也の方へ向けてやった。中にはまだ麗夜がいるのか?本人だったとして咲也は目の前の状況をわかっているのだろうか……だが今はそんな事はもうどうでもよかった。
 自分に向け伸ばされた手に、咲也も答える様に手を伸ばす。夢の中の出来事の様にふわふわした感覚。
 咲也の混沌とした意識の中で、目の前の出来事は風に靡くカーテンの向こう側の出来事みたいに断片的に見えていた。このカーテンを取り払えば……咲也は心の中で思ったがなかなか開いてくれない。だが断片的に見える情景は少しずつ、確実に意味を持つ様になり、咲也を覚醒させていく。いやその逆だ。状況が理解出来た時、彼はこれは悪い夢だ、そう思った。こんな事があってたまるかと。
 だがこの手の感触は……
「――――!」
 突然、咲也が弾かれた様に克己から離れ、頭を抱えて悲鳴をあげた。
 冠の飾りや髪を振り乱し、苦しげに身を捩る様子は宛ら舞を舞っている様だった。
 数十秒後、地に伏せ、ぴたりと静まった咲也が顔を上げた時、彼の目はあの虚ろな眼差で無く、本来の尋常な光りを取り戻していた。我に返ったのだ!
「俺……一体……?」
 咲也は頭を押さえて立ち上がると、はっとした様に慌てて克己の方へ顔を向ける。
「嘘……嘘だろ?!」
 信じたくない光景がそこにあった。
「かつみ――――っ!!」
 慌てて咲也が駆け寄る。

 咲也は再び克己の元に辿り着けなかった。

 それは一瞬の出来事。
 和馬達は一筋の金色の光が走るのを見た。次の瞬間には咲也は空に浮かんでいた。
 光のロープで絡め捕られて。そのまま宙乗りの役者の様に空を移動して行く。
 その先の建物の屋上には誰かがいて、咲也を受け止めた。
「ああっ!」
 雲母と和馬が声をあげた。
 きらめく月の光りと同じ色の髪、すらりとしたシルエット。夜明け前の最後の月明かりに浮かんだ人影は……麗夜。
「放せ! 放せよっ!!」
 咲也が逃れようと泣き叫んでもがく。
 しかし麗夜のたおやかな筈の腕は強靱に咲也を捕らえて放さない。
「待て!」
 和馬が走り寄ったが、麗夜はくるりと向きを変えると、咲也を抱えたまま跳躍し、闇に紛れてふっ、と消えた。
「かつみ――――っ!!」
 悲痛な咲也の叫び声だけが後に残った。

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