HOME

 

蜩~ひぐらし~ - 三

2015/02/16 13:36

page: / 86

 京都市の山深い郊外、牛若丸こと源義経にゆかりのある事で名高い鞍馬の山中で、一つの戦いが静かに繰り広げられていた。
 鬱蒼と木々が繁る昼なお暗い山の中を、脱兎の如きスピードで縫うように走り抜ける一人の男。まだ若い。そして大きい。アーミーカットの頭髪、あちこち破れて汗や泥で汚れたランニングシャツからのぞく仁王像みたいに盛り上った筋肉と日焼けした肌は鍛えぬかれた格闘家を思わせるが、顔立ちは不釣合いなほど子供じみてあどけない……今は眉間に皺を寄せた必死の形相であるが。そうとは感じさせぬ機敏な動きをしていても傷を負っているらしく、脇腹と色褪せたジーンズの腿のあたりが血に染まっている。
 この手負いの巨人、名を和馬という。
 彼は追われていた。
 突然、和馬の右肩から血が飛沫いた。続いて頬からも。何も掠った様子も無いのに、鋭利な刃物で切った様にすっぱり傷口が開いた。
「つう……くそっ、逃げても無駄ってか」
 彼はそう吐き捨てると走るのを止め、向き直って姿無き追撃者と対峙した。
「鬼の次はかまいたちか。お前さん達の親分もたいがいしつこいぜ」
 その言葉に答えるように、また数カ所赤い線が和馬の体に走った。彼は怯む事無く、
「ほう。気にくわなかったかい?親分なんて言ったのが? 自分がいいように操られてるのも気がついてないのか。困ったもんだな。いいかい、俺がやり返さないのは……まあ鬼は手違いで殺しちまったけど……お前等が気の毒だからよ。眠りを妨げられ、こんな不似合いなご時世に放り出されたあげく、何処の馬の骨ともわからん妖術使いの手先に使われるんじゃあな。だから俺が同郷の誼でおとなしくしてるうちにもうやめな」
 親しい友人にでも話しかける様な口調で、子供みたいな笑顔を見せて言ったが、返ってきた返事は苛烈さを増した攻撃だった。
 もはや原型も留めぬほど切り刻まれたシャツが飛び散り、露になった鋼の肉体に無数の傷が走る。刈り込まれた頭髪の生え際からも大量の血が流れ、目に入って堪らず和馬は顔を伏せた。
「お前なぁ……」
 血にまみれて俯いた和馬が顔を上げた時には、その表情にもはやあどけない笑顔は無く変わって修羅の厳しさがあった。
「説得も無駄だったか。鞍馬の魔王の庭で無粋な真似はしたくないが、やむをえまい。
言っとくが、もう手加減しねえぞ」
 和馬は胸前で手を合わせ、印を結ぶと小さく呪文を唱え始めた。それを阻止しようと、風を切って攻撃が繰り返されたが、彼は一向に気にした様子も無く続け、
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、全」
 縦横に腕を振り、九字を切ると、手刀を作って思いきり前に伸ばした。
「――――!!」
 伸ばされた手の先で、何かが聞き取れない程細く高い悲鳴をあげた。和馬の逞しい腕に貫かれた獣の様な姿が一瞬浮かび上がり、淡く不思議な色彩の靄に変わって四散した。
 静寂が訪れた。
 虫の声も、木の葉を揺らす風も無い。全てが息を呑んで巨人と物の怪の戦いの結果を見守っていたようだった。もしかしたら恐れをなしていたのかもしれない。
 しばらくそのままの姿勢でじっとしていた和馬は、ゆっくりと手を下ろし大きく息をついた。どっと汗が吹き出す。それに体中の傷が思い出したかの様に一斉に痛みはじめた。それでも彼は顔色一つ変えず、山を降りるべく歩き出した。
 数歩行くと立ち止まって、
「魔王さん、許してよな。そいじゃ」
 振り向きもせずそう言って手を振り、また歩き出した。死闘の後とも思えぬさわやかな口調である。血まみれの巨人はそれっきり口を開かず、ただ黙々と歩み去った。
 彼の姿が完全に消えた後、自然はいつものざわめきを取り戻したのだった。

「俺が?」
「咲也が?」
 咲也と克己が同時に訊いた。
「ええ、間違い無い。他の事は細かい所まで覚えて無くても、その顔は忘れられっこ無いわよ。こんな綺麗な顔した男の子なんて他にいないもの……あら、私ったら」
 雲母が気まずそうに口に手をやった。咲也も照れた様に俯く。一同は突然場がお見合いの席に変わったみたいな間の悪さを感じたが、まず俊己が年長者の落ちつきを見せて、
「で、夢占では京都に咲也君がどういう風に係わって来ると出たのかね? この子はこの街の人間では無いが」
 訊かれて、雲母は首をひねった。
「ごめんなさい。詳しい事までは……先刻お話した様な次第で、もう一度占って確かめる事が出来なかったので。でもかなり重要な位置を占めている事だけは間違い無いと思います。夢の中に出てきた人間の中で、彼だけが顔まで判るほどに鮮明に見えたのです。今みたいな普通の服装じゃなく、煌びやかな着物を纏って頭に冠を被ってたわ。祇園祭のお稚児さんみたいな格好よ。化け物たちでもうっとりするほど綺麗だった」
 瀬奈親子は至って真面目な表情で聞いていたが、咲也がぷっと吹き出した。自分がそんな格好をしているところなど、想像もつかなかったのだ。
 雲母が咎めるように咲也を見て、
「私が嘘つきだと思って?」
 そう訊いた。克己から前もって有名な占い師だと聞いていた咲也は、ご機嫌を損ねてはまずい……と慌てて首を振った。
 克己は、ふと徳次の最後の言葉を思い出した。彼はこう言わなかっただろうか?
(あの人を護ってあげて下さい。京都はあの人を待って――――)
「京都は咲也を待っている……」
「え?」
「徳次さんの霊がそう言い残したんだ。いろいろあって忘れてたけど……」
 三対の視線が咲也に集まった。
「な……お、俺? えぇっ?」
 いきなりこの場の主人公と化した咲也はうろたえた。考えてみれば彼は他の三人の半分も状況を把握していないのである。
 わけがわからない本人を余所目に、三人は深刻な顔で咲也の処遇を話しはじめた。
「咲也はちょっと他にいないほど強力な霊媒だからね。そこが問題なのかも……」
「そうね。一目見た時から気になってたんだけど、私、その人を取り巻くオーラが見えるの。瀬奈さんや克己君は炎みたいな強力なオーラが出てるのがわかる。これも変わってるけど、咲也くん? ……彼からは何も出てないか透明なのよね。本当に生きているのか心配になるほどよ」
「魂を保護するバリアを持ってないからね。その上霊界アンテナだもの、咲也は。何に憑かれるかわかったものじゃないし」
「京都は只でさえ霊気の強い土地だ。そこへもってきてこれだからな。平時ならば克己が一人ついておれば心配はそう無いが、事情が変わった今、皆で咲也君から目を離さん方がいいかもしれん」
「勿論ですわ。京都の魔界化にどんな風に係わって来るかは今はわからないけれど、彼が間違い無くkey parsonよ。何としても死守しなければ」
 ……などと、勝手に自分の事が語られているのを、しばらく咲也はおとなしく聞いていたが、だんだんつまはじきにされているのに腹が立ってきて最後にはふてくされてしまった。周りの者が皆知っているのに、自分だけが無知なのは気持ちのいいものではない。ましてやこと自分の事に関しては尚更だ。どうでもいいや、と咲也は拗ねて唇を突き出してぷいと横を向いてしまった。
 それに気がついて克己が、
「咲也聞いてる? 大事な事だよ」
 そう言って咲也を肘でつついた。
「ふん。どうせ俺にはわからないもん。なんだよ、人が何も聞いてないのをいい事に、人のこと好き勝手に言っちゃって」
 咲也がふてくされたまま言ったので、克己達は今まで雲母が語った未来の予言についてまだ咲也に聞かせていなかった事を思い出して苦笑した。
「ごめんごめん。悪かったよ。機嫌直して」
 もう一度、雲母が手短に夢占の結果を話したが、咲也の混迷は深まるばかりだった。
「……何か余計わからなくなった。京都に恐ろしい事が起ころうとしてるのはわかったけど、どうして俺なんだろ? 俺がその京都の魔界化とやらに係わってるって事?」
「今は違ってもそうなるかも、ってこと」
「……」
 不安げに俯く美貌の少年が少し気の毒に思えて、雲母はフォローのつもりで、
「でもね、夢に出てきたってだけで、もしかしたら悪い意味でじゃないかもしれない。私の占い師としての意地をかけてもいいけどあなたが鍵になるのは間違い無いと思うの。それはもしかしたら良い意味で……解決の鍵になるのかもしれないじゃない?」
 そう言うと周りの者の顔がぱっと明るくなった。
「そうか。そうも考えられるんだ。徳次さんは“京都が咲也を待ってる”って言ったんだもの」
 と、克己。俊己はもう少し慎重だった。
「まあ、注意するに越した事は無いが、悪い方にばかり考える事も無いな」
「そうです。それに、他の事も含めて、もう一度未来を見なければなりません。それではっきりすると思います。瀬奈さんのご協力があれば邪魔が入る事無く占えると思うのですが、どうでしょう?」
「ここも完全とは言えんが少しはましだろう。こちらこそお願いしたいところだ」
「良い方だといいわね、咲也君」
 雲母は咲也に優しく微笑みかけて言った。
 そうは言ったものの、雲母には暗い確信があった。
(この子は――――可愛そうだけど悪い方の鍵……それは間違いない。それがどんな形なのかはわからないけど)

page: / 86

 

 

HOME
まいるどタブレット小説 Ver1.13