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鵺~ぬえ~ - 一

2015/02/16 14:03

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 美しい夜だった。
 濃紺の天鵞絨に金の砂粒を蒔いた様な夏の夜空に負けじと、地上にも人工の星が無数にきらめく。その一つ一つに幾つもの命の営みと思いを孕んで。月は煌々と光を湛え、静かに二つの星空の中に浮かぶ……そんな夜。
 昼間の雨が嘘の様に晴れわたった月夜空をしばし見上げて、克己は大きく夜の空気を吸い込んだ。
「静かだね」
「うむ。だが凄い妖気だ。化け物達ばかりが活き活きしておるわ」
 車も人も無い街。最近の京都で夜遅くまで出歩く者など殆どいない。皆、怖がって早めに引っ込んでしまうのだ。飲み屋帰りの酔っぱらいを運ぶタクシーさえ通らない。深夜の京の街に咲也らしい少年が現れたとの話に、麗夜の罠かもしれないと知りつつ、俊己、和馬、克己は乗り出した。
 御所の付近に現れる……との話だったが全ての門の前は先日の爆破事件以来厳重に警備されており、近づけない。替わりに式神を飛ばして監視させ、少し離れた場所で三人は待機していた。
 深夜零時。日付が変わった。
「和馬さん、何か見えた?」
 今夜何度目かの同じ台詞を克己は吐いた。
 和馬は地面に座して片手で印を結び、目を瞑って集中している。式神の目を通して見ているのだ。かなり高度な術を必要とする上、もう数時間集中している。今夜はそう暑くないが、額には汗がびっしり滲み、ぽたぽたと顎を伝って滴っている。
「いや、まだ変わった事は……」
 何度目かの同じ返事を返しかけて言葉を切ると、和馬は目を瞑ったまま少し身を乗り出した。近眼の者が遠くを見ようとする時みたいな仕種。
「どうしたの?」
 訊かれて和馬は目を開け、首を横に振った
「……急に何も見えなくなった」
「え?」
 克己と俊己が何か言いかけた時、突如彼等の視界もすうっ……と暗くなった。
 それは月が隠れたせいだった。
 先程まで月明かりで足元に影が出来、相手の表情も読み取れる程の明るさだったのが、月に黒い雲が掛かった途端、夜本来の闇が訪れたのだ。雲は何処から現れたのか、星もはっきり見える晴れ渡った空だったのに……
 それだけでは無い。監視のサーチライトも街灯の光も見えず、辺りは濃密な闇に包まれている。門前の監視の間からも異常に気がつくざわめきの声があがっている。
(――――来たか?)
 闇の中、克己は手を伸ばし周囲の気配を探った。しかし……
「父さん……」
「うむ。おかしい。急に静かになった」
 俊己も闇に包まれた瞬間、周囲に満ちていた妖気が変化するのを感じていた。目に見えぬ者達の声の聞こえる彼等には、雑踏の中にいる様に賑やかに感じられた雑霊のざわめきがぴたりと止み、静まり返ったのだ。妖気が消えた訳では無い。闇が訪れるのを合図に、今まで自由に騒いでいた者達の間に緊張が走り、息を潜めてしまった様な。
「……まるで何かを待ってるみたいだ」
 和馬の呟きは的を得ていた。
 はりつめた沈黙の数分後、風も無いのに月を覆っていた雲がさあっ……と切れた。
 再び街は月の光に照らされた。と、同時に克己の肩がぴくん、と震えた。
 感じる!
(なんて凄まじい妖気だ)
 静まっていた妖しの者達の気配がさざ波の様にどよめく。
 待っていたものが来たのだ。
「あれを見ろ!」
 俊己が空を指差した。
「ああっ!!」
 克己と和馬が叫ぶ。
 空にそれは浮かんでいた。
 満月では無いが、明るい光を湛えた月を背景に、巨大な獣のシルエット。
 ぐおぉぉん……獣が吠えた。
 その声に誘われるかの様に、一斉に地上から無数の淡い光がゆらゆらとたちのぼり、獣の周りに集まった。一時息を潜めていた霊や物の怪達が再び動き出したのだ。
(待っていた! 待っていた!)
 妖魔達の歓喜に満ち溢れた声が聞こえる。
 彼等は待っていたのだ。この妖獣の出現を。
 背に咲也らしい少年を乗せているという話だったが獣だけで人の姿はなかった。
 獣の影はしなやかに足を動かして舞う様に宙を巡った。堂々たる王者の如く、妖しい光の臣下を引き連れて。
 克己が感じた妖気の主はこの獣だった。
 闇が晴れるまで気配も感じられなかったのに。
「凄い……あいつ、他の奴とは比較になら無い格の高い化け物だ」
「俺の腕を喰った奴だ……」
 和馬が呻いた。
「あれが!?」
「だが前に見た時より数段でかくなってる。妖気も比べ物にならないくらい強くなってるけど……」
 月明かりと霊の発する光りに照らし出され浮かびあがった獣の姿を克己は見た。
 何と奇妙な姿だろう。顔は狒かゴリラに似ている。発達した頭部、突き出た鼻面。正面に並んだ赤く燃える眼。だが、猿類特有のやや間伸びした鼻の下の口からは長い牙が剥き出て、額に小さな角がある。体は犬などの肉食獣に似ていて、鋭い爪を持つ逞しい前後の足だけが虎の様な縞模様。更に奇怪さを増すのはぬめぬめと光る鱗に覆われた長い尾で、先にはもう一つ顔が付いているではないか。
「あれは……鵺!」
 俊己が声を上げた。
「鵺――――昔、紫宸殿の屋根に現れて白河法皇を病気にし、源頼政が弓で射殺したという、あの伝説の怪獣?!」
「あの話は嘘だ。確かに平安時代、暴れ回っていたが、奴に襲われれば病気などでは済まぬ。それに殺されたのでは無い。封じ込められ眠っていただけ。殺す事が出来なかったのだ。しかしこんな恐ろしい物まで飼い馴らすとは……麗夜……やるな」
 自分が戦った獣の驚くべき正体を知り、和馬は愕然とした。よく腕一本で済んだものだ。
「見て! 奴がどこかに行く!」
 御所上空をゆっくり旋回していた鵺が向きを変え、一直線に走り始めたのに気がつき、克己が叫んだ。
「追うんだ!」
 妖獣を追い、三人は駆けだした。

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