HOME

 

環~たまき~ - 七

2015/02/17 07:14

page: / 86

 雲母が予言した通り、昼近くになると京都の気温は上がり始めた。いきなり襲って来た氷河期の悪夢から覚め、通常の夏の日が戻って来たのかと、人々が喜んで冬服を脱ぎ捨てたのも束の間、一瞬にして氷と雪を水蒸気に変えた熱気は止まる事を知らず、容赦なく気温は上昇を続け、摂氏四十度に達するのに一時間を要しなかった。その間の温度差、およそ六十度。もはや人間の耐えうる許容範囲を遙に越えていた。中には先の寒波に驚き、俊己達の警告をやっと信じて市外へ避難した賢明な人々もいたが、大半の人間が街に残っていた。病人や老人、子供など弱い者から犠牲者が相次ぎ、心臓麻痺や熱射病で倒れる人々に病院の対応も追いつかない状態。往来にいた通行人は我慢しきれず手近の建物に逃げ込んだが、冷房など追いつきもしない。アスファルトに覆われた地面からは陽炎が立ち昇りオーバーヒート寸前の車の行く手に、運転手は蜃気楼を見た。
「早く!こちらへ!」
 街のあちらこちらで、市外に避難しそびれた人々を誘導する声が飛び交いっていた。
 全国から俊己の要請に応え、応援に集まって来た術者や能力者達である。彼等は結界を張って、少しでも多くの者を収容するべく奮闘していた。彼等も人間である以上、この暑さは堪えるし、自然の力の前には余りに小さな抵抗ではあったが、元々この異変は妖しの力によるもの。妖気を遮断すれば少しは凌ぎやすい。意識も朦朧とする熱気の中、藁をもすがる思いで彼等に従った者は、やっと事が尋常でない事を知り、口伝いに噂は広まってやがて皆、素直に従うようになった。
 街中の人々が集まり始めた午後二時、ついに気温は四十五度を越えた。

 ざわざわ。
 鬱蒼と繁った杉木立の中、聞こえるのはただ木々の間を吹き抜ける風が、緑深い梢を揺らす音だけ。
 瀬奈家の護る神社の裏手の林の中。ここは街の暑さも無関係の様に、清涼な空気がたちこめていた。その木立の中の一本の木の前で克己は立ち止まった。
 注連縄のかけられた太い幹、天に大きく広がる枝……先祖代々、神木として祀られて来た杉の古木。樹齢も、何時から神の御代として特別な木になったのかも定かで無いが、きっと京の都が栄華を究めた時代からずっとここに根を張り、世の移り変わりを見守って来たに違いない。
「貴女はどうすれば咲也を助ける事が出来るかご存じなのですか?」
 克己はそう神木に語りかけた。何故か、皆この年老いた木を女性形で形容する。木に明確な性別があるとも思えないし、長年風雪に晒されて来た荒々しい枝振りからも、とても女性的とは言えないのに……である。
 勿論、木からは何のいらえも無い。しばらく待ったが、やはり何の変化も見られない。
「環はここに来ればわかるって言ったけど……」
 克己が諦めて背を向けかけた時、不意に木の方へ引き寄せられた気がした。
「もっと側に寄るの?」
『そうだ』と答えがあった気がして、克己は木に近づいた。すると今度は手が木の方に伸びた。自分の意思で動かしたのでは無いが、こんな事で恐れる克己ではなかった。
「触れるの?」
 物言わぬ木はまた肯定した。素直に従って克己はそっと木肌に手を触れた。
 途端に、手を通じて流れ込んでくるエネルギーを感じた。温かく、優しい力。それは身体の隅々までいきわたり、徐々に克己に同調していく様だった。否。克己の方が木に同調させられているのだ。
(目を閉じなさい)
 頭の中に声が響いた。
 若い様にも年老いている様にも聞こえる不思議な声。しかし女性的な柔らかい声だ。この木が神ならば、やはり女神が宿っているのだろう。
 閉じた目の前に光が見え始め、やがてはっきりと視界が開けた。
 見えたのは――――
「咲也!」
 咲也がすぐ目の前にいる。
 これは過去の記憶だ……木自信となった克己には瞬時に理解出来た。
 ゆっくり歩み寄って来る咲也。彼は辺りを見回してから、克己の方に手を伸ばした。胸がどきりと鳴る。手が触れた。その感触の鮮明さに、胸が更に高鳴った。
 咲也は手を広げ、身体を寄せて克己を抱きしめた。咲也の鼓動、体温、息使いまでが伝わってくる。
「ああ……」
 これは神木の記憶なのだ。
(永い歳月生きてきた木の自分にとって、人間はなんて小さく、儚げで、愛けない生き物なのだろう。この少年の魂はその中でもまた特別。誰かが守ってやらなねば生きていけない赤子の様に無防備ではないか……)
(母さん――――)
 咲也の思いが、触れ合った温かい部分から伝わって来た。
(この身に亡くした母を見たのかい?ああ、可哀相な子、可愛い子。私でよければ甘えるがいい。愛し子よ、守ってあげよう)
 木の女神は母性を刺激されたらしい。それと同調している克己もまた、咲也に対する愛しさと保護欲がこみ上げて来るのを感じた。今は女となった身ゆえだろうか、それはとても自然に感じられた。
 突然咲也が消え、景色が変わった。
 漆黒の闇に輝く星。その中に浮かぶ美しい人影、麗夜。麗夜の隠れ家星座の間の一幕。そして早回しの映画の様に、めまぐるしく場面は移り変わって行った。その全てが咲也の目を通して見たものらしかった。接触した際神木は自分の一部を咲也に分け与えたのだ。それを通じての、これも神木の記憶。彼女は克己達の知らないことまで全て知っていた。それだけでは無い。麗夜に魔法をかけられて操られ、自我を押さえ込まれていても、咲也は神木の力に護られ、魂の核ともいえる最後の大事な部分までは侵されなかった。それ故時折ふと我に返ったり、麗夜に強力な魂呪縛の術をかけられ、憑依されたときも打ち破れたのだろう。
 早送りの記憶の流れは、再び麗夜に拉致され、瀕死の克己と引き離された所でスローダウンし、やがて、すう、と消えた。
「ここから先は私にもわからない……」
 木の女神の哀しげな声が聞こえた。
「どういう事ですか?」
「あの子は自分がそなたを殺したと思い込み、自ら心を閉ざした……もうあの子は何も聞かず、何も見ない。とても深い深い、遠い遠いところ、私さえ届かないところへ隠れてしまった……人間の心は天よりも広く、海よりも深い。そこに潜んでしまっては、もう私でも手が届かない」
「咲也……」
「咲也を助ける方法を教えてとお言いだね。それはわからないけれど、さらった者を倒す方法ならわからなくも無い」
「麗夜をですか!?」
「あの西洋の血を引く者も、決して間違った事をしているわけでは無いのです。元々、京の都は妖しの地。いずれは彼等の手に還る日も来るでしょう。だが、まだ早い。強引にすぎる。このままでは妖しも人も双方不幸になるのは必至。街を守護する身としてすて置けません……そして、私の可愛い息子をかどわかしたこと、決して許しません。しかし、あの男には多少の事では勝てない。鵺をごらん。あの獣はこの土地から生まれ出た孤高の物の怪。本来、誰かに服従する様な性格のものでは無い。それを従えたあの男は確かに恐ろしい力の持ち主……それでも鵺はいつまでも誰かの飼い犬になっているほど大人しい獣ではありません。妖気を吸い、次第に力を増して、やがては主にすら牙を剥くでしょう……それを利用するのです」
「鵺をですか? でもどうやって?今、誰かに服従するような性格でないと……」
「それは――――」
 答えかけた神木の声が突然遠くなった。それだけでなく、すう……と体に満ちていた神木の力さえ遠ざかり始めた。
「どうしたのですか?」
「ここも妖魔達が集中的に狙い始めました。もっとゆっくり説明するつもりでいたけれど、そうもいかない様です」
 ここだけは無関係の様に涼しかった神社の境内も、次第に気温が上がり始めたのを克己も先刻から感じていた。話しをするのに、神木が力を割いているせいだろう。
「……かつてそなたの何十代も前の先祖はやってのけた。そなたも同じ血を引く者。その方法はわかる筈」
 いよいよ声は小さくなって、木の女神の気は克己から遠ざかっていく。外の攻撃に対して応戦するべく注意を向けたのだろう。彼女はこの神社の守護者なのだ。
「待って!」
 これ以上留めるのは無理なのはわかっている。だが、わからないから尋ねたのに、明確な返答も無いままではどうすればいいのか?
 その克己の思いを察したのか、神木は再び帰って来た。
「鵺を弓矢で射るのです。但しただの矢ではいけません。特別な矢」
「あっ!」
 思わず克己は胸元に手をやった。あれ以来決して放す事なく大事に持っている錦織りの小さな袋。家伝のお守り。対鵺の切り札。
「遠ざけるだけならそれで充分。しかしそれで射れば、封じるのも従えるのも可能」
「そうか……」
 鵺は殺せないと父は言っていた。かつてこの矢はそのようにして使われたのだ。
「私から一本、そなたがこれだと思う枝を切り取り、持ってお行きなさい。それを矢に仕立てて鵺を射るのです。本当ならもっと霊格の高い物がよいのですが、仕方がないでしょう……さあ、娘よお行きなさい。そなたなら必ずや、勝てるでしょう。そしてお願い。この動けぬ大木の身である私に代わり、あの子を取り戻して。この私を母と呼んだあの愛し子を……」
 今度こそ本当に神木の気配は消えた。
 ぱちっ、ぱちっと静電気みたいな音が空から聞こえる。神木は総力を傾けて妖魔達の侵攻を防ぎにかかったのだろう。
 木に頭を下げ、礼を言うと、克己は小さくぽつりと漏らした。
「――――貴女も環と同じ課題を僕に出すのですね――――」
(あの人を護ってあげて)
(咲也さんを)
(愛し子を)
 徳次、環、去って行った者達。そしてこの木でさえも。皆最後まで咲也を思い、克己に後を託してゆく……それを何故?と不思議には思わない。彼等の気持ちを一番わかるのは克己なのだから。
「咲也、君は幸せだね。皆が君の事思ってるよ……勿論僕だって。だから、僕は皆のためにも絶対君を助け出すよ。待っててね、咲也」

page: / 86

 

 

HOME
まいるどタブレット小説 Ver1.13