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大いなるもの - 一

2015/02/17 08:20

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 何処かから、時を告げるオルゴール時計の音楽が聞こえる。
 時刻は午後五時ちょうど。八月のなかば、次第に日が短くなってきたとはいえ、
普通ならまだ明るい時間帯だ。だが今日は違った。辺りはもう暗い。太陽は危険を感じて身を隠してしまった様だ。そう、今日は普通の日ではない。特別な日。
 “限りなく黒に近い赤味を帯びた深紫”とでも表現するのが一番妥当かと思われる、そんな色の空の下、街は闇に沈んでいる。停電どころか、炎さえも光を失い、空よりもまだ暗い濃密な闇は、ねっとりと液体の様に蟠って何もかもから輝きを奪っていた。
 そんな中、とある建物の屋上付近だけが、眩い光に包まれていた。
 コンクリートタイルの床に描かれた不思議な図形、その上に設えられた祭壇、置かれている銀の燭台の蝋燭の炎、短剣、足つきの金の杯、古い書籍……振り子の様に規則正しく振られる鎖の先の香炉からは、薔薇の香りの煙が立ち昇り、細い金の杖は宙に浮いた羊皮紙に、文字を紡いでゆく。
 儀式はすでに始まろうとしていた。
「……万物を司る四大元素、そのすべての力をここに集め、我、深淵の冥界の女王、
 Procelpineの息子、偉大なる魔界の王、Beelzebutuの契約者としてここに命ずる。東方よりまず参り来れ、孔雀の王、次に来れ、西方の四つ面の王、北の山羊の王、南方の梟の王よ……」
 氷のように冷たく研ぎ澄まされた声が、羊皮紙の文面を確かめる様に読み上げる。その声が、ぴたりと止んだ。
「……」
 麗夜はふと、空を仰いだ。
「星が動いたな」
 奇怪な色の空に、星など一つも見えない。それでも、この魔導師には見えるというのか。その配置、一つ一つの役割、意味までも。
「鵺がまたしても失敗したな。いや、失敗しただけでは無いというのか……それに、巨大な星が一つ動いている。俊己でも剣和馬でも無い。誰だ? 運命の星図を動かすこの強い力……これは……」
 侮蔑と、疑問と、驚嘆が早変わりで麗夜の表情にのぼっては消えていった。最後には、それは皮肉な笑みに変わった。彼には理解出来たのだ。星が告げる全ての事が。
「なるほど……そういう事か。儀式を急がねばならんな。咲也、おいで」
 手招きした先には、気配も感じさせずに、ひっそりと少年が座っていた。日下部咲也。時折瞬きする以外は、動く事も喋る事も無くあどけなさの残る美貌には何の表情も表わさず、その様は人形そのものだ。
 咲也は手招きされると、ふわっと立ち上がって麗夜の方にふらふらと歩み寄った。麗夜が手招きしたのが見えているわけでも、その声が聞こえているわけでも無い。彼は何も聞かず、何も見ない。辛すぎる現実から逃れるために、自分自身で心を閉ざしてしまったから。彼を動かしているのは麗夜の魔力だ。
 麗夜は自分の元に手繰り寄せた咲也の肩を、壊れ物を扱う様に、後ろからそっと抱いて、耳元にささやいた。
「もうすぐ君の友達が来るよ。克己君……だったかな」
 咲也の顔を覗きこんで様子を見た。前にはこのキーワードで、強力な魂呪縛の魔法を解いて、驚かされた事がある麗夜だったが、何の表情も示さない咲也に、少々がっかりした様に僅かに眉をひそめた。
「まあ、今、正気に戻って抵抗されても困るし、かえって可哀相な事になるか……」
 白い頬に触れても何の反応も無い。そんな咲也を、麗夜は考え込む様に暫くみつめて、心の中に小さく揺れ動いた、人間らしい感情を打ち消すみたいに首を振った。
(今更、この子に告げて何になる。大切な人は生きていると……もうすぐ人間では無くなる者に。そして私も……何故、ほっとしているのだろうか。珠代の子が生きているという事実に。たとえ血の繋がりがあるとしても、私の目的を果たすための障害でしか無いものを。そして……私を討とうと、ここへ来ようというのなら、またしてもその命を絶たねばならぬというのに――――)
「所詮、私も人の子ということか……だが私は契約を果たさねばならぬ。平将門も織田信長も果たせなかった魔界との契約、今果たそうぞ。その為に二十九年前、私は俗世との関わりを捨てたのだから」
 自分に言い聞かせるように、独り言ちた後、再び麗夜の美貌は冷たい無表情の仮面を被り闇の儀式をとりはからう司祭に戻った。

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