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蜩~ひぐらし~ - 五

2015/02/16 13:37

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「馬鹿者め。あれほど注意しろと言ってあったろうが」
 きいん、と何もかも凍りつく様な冷たい声が部屋に響きわたった。
「電波に乗ればどれほどの人間が目にすると思う?大方の人間にはお前の醜い姿は見えんだろうが、中には霊視の利く者もおろう。御所は地元テレビ局のすぐ傍だ。あまつさえ注意が必要な神聖な場所なのに、TVカメラに写され全国ネットで流されるとは何事だ」
「何卒……お許しを……」
 今にもこと切れそうな震える声が答える。
 冷たい声はソファーに腰掛けた人物から発せられていた。非人間的な声に相応しく、その姿も浮世離れしている。ラファエロの描く天使の様に繊細で美しい姿。言葉は怒っているはずなのに、表情は人形のごとく変化せず、ただ美しく、冷たく研ぎ澄まされているだけだ。
 この部屋には他に人影は無い。答えたのは壁であった。妖しげな一人芝居の科白の様に美しいこの部屋の主は壁に向かって目に見えぬものと対話しているのだ。
「許せだと?邪魔者を消すはずの刺客は悉く返り討ちに遭い、儀式に必要な依童もみつけられん。その上今回の不始末、いかに繕ってみたとて到底許されると思うなよ」
「……・」
 姿無きものの絶望の沈黙が部屋を覆った。
 突き刺さるような言葉を、激昂する訳でも無く、淡々と言われるほど怖いものはない。頭ごなしに罵倒される方がどんなにましか。
「剣和馬を逃がしたのはお前の人選……とは言わんな、刺客の選択にミスがあった。下級の鬼やかまいたちごときに手に負える相手では無いぞ。それに前から気になっていた女占い師があの瀬奈家とコンタクトをとったと聞く。たかだか占うだけしか能の無い女と甘くみていたが、日本屈指の除霊師を抱きこむとは、もはや無視できぬ存在。本気で乗り出して来る前にけりを着けんと、和馬以上の勢力となるのは畢竟、今はおとなしくしている他の能力者達も瀬奈氏に続くだろう。彼はその道では知れた顔だからな。おや、何か言いたげだな」
 壁に向かって彼が言った。主人たる彼には姿無きものの表情がわかるのか。
「――――恐れながら、我等は前から瀬奈家を驚異とみなし、既に幾度か手を下しましてございます。あの家は昔、我等を封じ込めた術者の末裔。恨みもありますゆえ」
「ほう。初耳だな。で?」
「は……初めは強力な結界に阻まれ、少なからぬ犠牲を払いましたが、過日、その瀬名俊己の結界を破り、社の絵馬に封印されていた鬼を解放して、本人ではありませんが子飼いを一人葬りました」
「そうか……瀬奈氏の結界を破ったか」
「はっ」
 僅かながら誇らしげに壁が答えた。主人のほとんど変化しない表情に、少しだけ歓喜の色がさすのを見逃していなかったのだ。
 彼はゆっくりソファーから立ち上がり、壁に向かって歩いて来た。その表情が優しげだったので、壁に潜む姿無きものはほっとして彼を待った。主人は恐ろしいが、その姿は美しい。物の怪の身すら魅了されるほど……
 彼はそっと壁に触れ、愛撫する様になぞった。乙女の如き柔らかな指先の感触に、壁がわなないた。
「その功に免じ、今回は許してやろう」
 珍しく冷たさを感じさせぬ声で彼は優しく壁に語りかけた。そう……途中までは。
「……と、言いたいところだが、そうもいかぬ。私の許可無く手出ししおって。お前は用済みだよ影鬼。もっとも、今回の失敗がなかったとしても、遅かれ早かれそのつもりだったが」
「……そんな……」
「もうお前の替わりも決まっている。聞きたいか?ぬえを使う。やっと目覚めてくれたのでね。あいつはお前みたいにヘマはしないだろう。早速邪魔者を葬りにいったよ」
「鵺!なりません!奴は危険です!」
 影鬼と呼ばれた壁が叫んだ。
「ほう、自分の身より私を案じてくれるか。泣かせるじゃないか。安心しろ、ぬえは可愛い奴さ」
「後悔しますぞ!」
「うるさい。消えろ」
 彼の手がずぶり、と壁にめりこんだ。
「――――――――!!」
 耳を覆いたくなる様な悲鳴があがり、壁からどす黒い粘液が飛び散った。
「必ず……後悔す……る……」
 壁に牙を剥いた大きな口と、赤く光る無数の目が現れ、恨みの篭った表情を浮かべて彼を呑み込もうとした。しかし、彼がとどめを刺すように更に深く腕を突き刺すと、目は大きく見開かれ、口から最後の息が漏れた。見開かれた目のすべてに彼の美しい姿が映っていた。華麗な万華鏡の如く。
 涙に濡れた目は次第に輝きを失ってゆき、彼が壁から腕を抜くとすう、と消えていった。
「愚か者が」
 吐き捨てる様に言って、彼はくるりと壁に背を向けた。
「後悔する?私か?馬鹿な事を――――」
 影鬼の粘液を全身に浴び、黒く染まった美貌は妖しい笑みを浮かべた。
 それは堕天使の顔だった。

 すべての物が薄青に染まる時間。夏の夕暮れは、赤い色彩を伴った秋よりも寂しく、物悲しい。それは木々に谺する蜩の声のせい。夏の夕暮れの一時だけ歌う、儚い命のこの虫は一体何をそんなに嘆くのか
 黒いワンピースが見えなくなっても、克己と咲也はしばらく鳥居の下に佇んで悲しい虫の声を聴いていた。まだ昼間の火照りを残した石段に腰掛け、二人はぼんやりと黄昏の京の街を見下ろす。涼しい風が一陣、二人の髪を揺らして通り過ぎていった。
「まだ二日しか経ってないんだよね。京都に帰ってきて」
 克己が小さく呟いた。
「ああ。何だかめまぐるしくて、もう何日も経った気がするけどな」
 咲也が遠くを見たまま答える。
「ごめんね……僕が誘ったばっかりにこんな事に巻きこんで」
「まだ言ってる。お前のせいじゃ無いって言ったろ? まさか京都がこんな風になってるなんて誰も思わないじゃん……それよりさ、雲母さん戻って来たら謝らなきゃ。有名な人相手に酷いこと言っちまったから」
「気にしてないよ。きっと」
「だといいけど――――いきなりあんな事言われてすごく動揺してさ。こんな事、まさか本当にあるなんて思いもしなかった。俺もこんな風だからいろいろ怖い目に遭ったこともあるし、この世には科学で解明できないことが沢山あるのだって知ってる。でもいつも自分には遠いことだって思ってた。徳次さんが死んだ時も、おじさんの話を聞いた時も、地図の上に魔方陣が出てきた時も、自分には直接関係無いって心のどこかで安心してた。……正直、今でもそう思いたい。なのに、それに俺も加わってて、しかも重要な鍵を握ってるなんて言われたって、信じられない。信じたく無いよ」
「咲也……」
 遠くを見つめる親友の美しい横顔を、克己は悲しい目で見た。生まれつき他の者とは違う存在である咲也が、それでも必死で普通であろうとしているのが痛いほどわかって、克己は心が痛んだ。だが、逃れられない。どうあってもやはりお前は特別なのだ……と念を押されたようなものだ。その心中を察して不憫に思えた。
 咲也が克己の方を向いた。
 薄暮の中で、咲也の白い貌は一輪咲いた花の様に儚く浮かび上がっていた。昨夜は一睡もしていないせいか、目の下に微かに隈が出来ているのさえ、奇妙な色気を感じさせて、克己は思わず見惚れた。
「凄い事が実際に起きてるって、疑いもせずに受け入れたよ。自分でもびっくりするくらい素直にね。ここは俺の街じゃないけど、肌でわかるっていうか、あ、こいつはヤバイぞって思ったワケ。慣れかな? だから別段、どこかの魔道師だか何だかが京都を魔界に変えようと企んでるなんて途方も無い事だって信じるし、有り得ない事だとも思わない。たださ、どうしてそれと俺が関係あるわけ? 俺は傍観者の筈だ。タイミング悪く京都に来たからには性根入れて見届けるさ。克己が故郷のために戦うってんなら俺だって参戦するよ……役にはたたないけど。でも俺は主役を演じる役者じゃない。俺には克己みたいな力も無けりゃ、雲母さんみたく未来を見る事も出来ない。人と変わってるのは、幽霊呼び寄せちまうこの難儀な体質くらい。こんな俺がどうして事の鍵になれるってんだ?」
 やや熱をこめて咲也が言うのに、克己は沈黙で答えた。克己にもわからないのだから何も言えなかったし、咲也も答えを求めるというより、自分に言い聞かせている様な口ぶりだった。
「どうなるのかな……これから」
 ぽつり、と咲也が言った。
「どうなるんだろうね」
 克己が返す。
 また二人は街の方に向き直って遠くを見つめた。窓に明かりが灯りだし、京の街は夜を迎える準備を始めたようだ。いつもとなんら変わらない平和な眺め。どこにも異変の影など見えない。
「雲母さん早く帰って来ないかな」
 先刻は反発していたはずの咲也が呟いて、克己は苦笑いで頷いた。
「彼女がもう一回占ってくれたら、もっと詳しい事がわかるもんね。咲也のことだって何で夢で見たのかわかるだろうって言ってた」
「だーあっ、もう、イライラする!はっきりしてくれないと今夜も眠れない~っ!」
「どうどう。落ちつけ、落ちつけ」
「馬か? 俺は?」
 咲也が少しいつもの明るさを取り戻したのを見て、克己はほっとして立ちあがった。
「大丈夫。雲母さんすぐ戻って来るよ。さて、夕御飯のいい匂いもしてきたし、そろそろ中に入ろうか」
「そうだな。こんな時でもお腹はへるんだよ、これが。人間って悲しい……」
「しみじみ言わないでよ」
 くすくす笑いながら克己がその場を去ろうとした時、誰かが石段を上がってくるのをみつけて足を止めた。
「あれ?誰か来たみたい」
「まさか、もう戻って来たんじゃないよな。あのお姉さん」
 咲也も気がついたらしい。
「うそ。雲母さんあんなにごつくないよ」
 克己の言う通り、物凄いペースで上がって来る人影は、どう見ても雲母のほっそりした姿ではなく、男で、しかもかなりの大柄だ。
「おーい!」
 手を振りながら野太い声でその人物が二人に声を掛けた。
「ここの人か?」
「そうですけど」
 一段とばしどころか三段くらい一跨ぎにする勢いで駆け上がって来た男は、近づくにつれてその大きさがわかり、克己と咲也は我が目を疑った。遠近感をまるで無視して、数段下まで来た時には、すでに克己が見上げる程になった。
 身長2mは軽く越しているに違いない。克己は150cmほどしかないから、彼にしてみれば巨人に等しい。しかしその表情が妙に人懐っこい子供じみた顏だったので、怖い気はしなかった。
 巨人は仕種まで子供っぽく首を傾げて、
「瀬奈俊己さん?……じゃ無いよな」
「俊己は父ですが……あなたは?」
「俺、剣和馬ってんだけど、親父さんにちょっと用があんだ。会わせてもらえる?」

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まいるどタブレット小説 Ver1.13