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降臨~こうりん~ - 二

2015/02/17 10:24

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「この音は螺蛭の石笛……俊己か」
 魂返りの笛の音は、屋上の麗夜の元にも届いていた。その効力は、ここにいた妖魔も数体、音に惹かれ降りていったほどだ。
「涙ぐましい努力だな、え? 俊己。そうまでしてでもこの私の邪魔をするのか? 比類無い能力を持ちながら……お前達の愛するありふれた日常とやら、滅びへの道を進み続ける機械と科学に支配されたこの世界を、守る価値があるというのか? 俊己よ……」
 麗夜は見えない旧友に語り掛けた。
「お前は我が子に後を託したつもりだろうが……残念だったな。どうやら私の勝ちは決定的だ。未来は私を、魔界を選んだ様だ」
 黒いトーガの裾をひるがえし、麗夜は金の杖を空に向けてかざした。
 街の心臓の上空から広がった虹色の雲の渦はもう街全体を覆っていた。そして、渦の中央には、今度は真っ黒の穴が口を開けて広がってゆく。
 穴の向こうになにかが蠢いている。
 咲也の目にもその『なにか』は見えていた。
「……」
 咲也は祭壇にいた。錦織の打掛を脱ぎ、飾冠も沓も足袋も何もかも外し、白い襦袢だけになって、無言で仰向けに横たわっている。その顔は無表情だった。
「恐くはないのかね?」
 麗夜の問いに、
「べつに」
 咲也の返事は素っ気無かった。
「何でまだ降りて来ないのさ?」
 今度は咲也が訊いた。
「今、∞§£@#はその身体に合わせる為の調整中だ。あと少し、かな」
「ふうん……」
 麗夜の口からこの世のものでない発音の名が出ても、咲也の顔には何の感慨も浮かばなかった。まだ意識を支配しているのはあの咲也らしい。普通の神経の持ち主なら、大の大人でもとうに泣き叫んで狂乱するところだ。
 いつもの咲也であったならどうだろう? と、ふと考えて、麗夜は気がついた。
 この咲也は本当は何なんだろう? 何故あんなに何もかも知っている? 空にいるものすら知り合いの様に。そして、人の運命まで操り導く力は一体――――
(ペイモンの短剣で目覚めたと言ったな? 確か。何故その名を知っている? 魂の一部である身が傷つく? まさかこいつは……)
「……君がいても、魔界の者がその身体に入れるのかな?」
 麗夜はかまをかけてみた。
「どういう意味?」
 案の定、咲也はとぼけた。
「天使と魔王が同居できるのか訊ねている」
 麗夜は今度はストレートに訊いた。
「……バレちゃった?」
 しれっとして咲也は横たわったまま僅かに肩をすくめた。考えたくもなかったその正体は麗夜の推測通りだったらしい。
「やはりな。ならば……」
「あ、心配しないで。悪魔と呼ばれるものと僕達はもとは同じだ。それに……さっきも言ったように、今の僕は人格を構成する一つの要素でしかない。完全にあれにこの身を支配され“咲也”の魂が消滅すれば僕も共に消える。決してあなたの邪魔をするためにいるのでは無いよ。言ったでしょ? 公平だって。こうも言ったよ。現世での意志は関係ないと。それがこの身の置かれた立場だと。でも、僕以外の“咲也”には酷だからね。思いが強すぎるから……だから僕がでしゃばってる」
 咲也は、麗夜が問いただそうとしたことをすべて先回りして答えてみせた。
「……さて、信じていいものかどうか」
 まだ麗夜は半信半疑だ。無表情な美貌に微かな焦りさえうかがえる。この差し迫った時に無理もなかった。
「信じてもらうよりないね。でも……僕以外の部分が目覚めた時は知らないよ」
「……案外、お前を遣わした神はいい加減で、悪魔より残酷なのかもな」
 麗夜はため息まじりに呟いた。その時、強い風が一陣、奇妙な音をたてて吹き抜けた。それは空のものからの合図だったのか。
「まあいい。もう懸念しても始まらん。調整は済んだ様だ。降りて来るぞ、ついに!」
 麗夜の声と同時に、それは動き出した。
 形容しようのないシルエットが、雲の渦の中心の暗黒の穴から、這い出そうとしている。
 空が苦悶しながら出産している……悪夢の胎児が今、この世に生まれ落ちようとしている……絶望の中で見上げる街中の人々にはそう見えた。
 珠代と雲母は瀬奈の神社の鳥居の下で、その様子を見ていた。
 葛西達霊能者は、もはや法力を失った寺の境内で集まった人々と共に見上げていた。
 俊己は見ているだろうか。
 克己と和馬は鵺と共に見上げていた。今だ魔法障壁は行く手を阻んだままだ。
「そんな……間に合わなかった?!」
「ちっくしょおぉぉっ――――!!」
 街中の妖魔が、物の怪が、霊が見ていた。
 そして……麗夜と咲也が。
 ずるり、とそれは完全に穴から出てきた。
 それは一目で異界の存在とわかる……そんなものだった。
 見る事が出来る。形もある……だがどんな形だとも、何に似ているとも言いようの無い姿。たしかにそこにいる。ひれ伏さずにはおかない、圧倒的な力も感じる……だが生き物なのか、何なのかはわからない。そもそも何によってその姿が構成されているのかもわからない。透き通っていて液体でもガスでも光でもないもの。どうやら物質的なものではなさそうだ。霊体、もしくは星幽体……それもただの霊ではあるまい〈大いなるもの〉――――誰かがそう言った。
 そう、それはまさにそう呼ぶに相応しいものだった。
 空の暗黒の穴から生まれ出たものの視線が街のある一点に向いた。その先は言うまでもなく、京都駅ビルの屋上、祭壇の上の咲也だ。
「*@%$≠?」
 麗夜は空のものに何ごとか語り掛けた。およそ人間の口から出るとは思えない奇怪な発音の言葉だった。
(#∴〆∞£§※∂≡)
 地の底から湧き出すような、妖しい響きが返ってきた。これが空のものの声なのか。
「お気に召したようだ」
 麗夜はそう言って祭壇から少し離れ、床に描かれた図形のうちの、最も小さな魔法円の中に立った。それは準備完了の合図。
「……克己は間に合わなかったね。咲也」
 小さく、麗夜にも聞こえないほど小さく、咲也が呟いた。
〈大いなるもの〉――――魔界の王が降りてこようとしている。咲也に向かって。
 咲也は目を閉じた。
 その時、
 ぐおおぉん!!
「さくや――――っ!!」
 獣の咆哮と共に、少女の叫ぶ声がした。
 麗夜が声のした方へ目を遣った。
 そこには、鵺の背に乗った克己と和馬がいた。彼等はついに魔法障壁を破り、屋上へ辿りついたのだ。
 だが、それは今まさに空から〈大いなるもの〉が降りてくる瞬間だった。

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まいるどタブレット小説 Ver1.13