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夕立~ゆうだち~ - 六

2015/02/16 08:14

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 入口を一歩踏み入れ、克己が見たものは外の雷が嘘の様に静まり返った神殿だった。
 黒光りする磨き上げられた床、高い天井と白塗の壁、神棚とを仕切る錦の縁取りの御簾三方、格子窓、榊の瑞々しい緑……全てが克己の幼い頃からの記憶通り、整然とあるべき所に納まっている。
 始めに気がついた変った点といえば、中身をぶちまけて足元に無造作に転げた白い御神酒徳利と御撰を盛る皿だった。秩序を乱したその乱暴な放り出し方から緊張感が伝わって来るようだ。投げ出した者……珠代だろう……は余程何かに驚いたに違いない。
 一体何に?
『鬼が絵から出てきたんよ!』
 母はそう言った。
 絵……確かに鬼の絵はある。克己はもう少し中へ入って、入口を振りかえった。
 そこには先祖伝来の色褪せ、朽ちかけた大絵馬が掛けられている。真偽のほどは明らかで無いが、鎌倉時代後期の作といわれているその絵馬は百鬼夜行の図柄で、平安京に跋扈する妖怪や鬼が実に細かく、活き活きと描かれている。克己は小さい頃からこの絵が嫌いだった。ぞっとする程緻密に描かれた鬼達が皆こちらを見ている様な気がするからだ。だからあまりじっくりと見た事は無いが、別に変ったところは無いようだ。尤も、母が言った様に鬼が本当にこの絵から飛び出したとして、一匹くらいいなくなっていてもわかりはしないだろうが。
 克己は絵馬から目を離して、正面に向き直った。辺りを見渡しながら中をゆっくりと進み、ついにそれを見つけた。
(あれ?)
 神棚の右の壁、あんな所に模様があっただろうか?
 正面は御神体の依代を祀った神棚、左右は灯明が点々と並ぶだけの白い壁である。その正面に向って右側の壁、天井ちかい高さの所に、それはあった。
 図柄は目にも鮮やかで艶やかな深紅の牡丹の花と紅葉。
 花に羽根を広げてとまった大きな蝶。
 しかし、どこか狂っていた。
 目を凝らしてそれを見ていた克己の喉が、くっ、と音をたてた。
 それは模様などでは無かった。
 蝶には顔があった。人間の顔が。
 緋の牡丹は血。蝶の羽根は広がった浅葱色の袴と白い着物の袖――――
「徳次……さん?」
 返事は無い。
 返事など出来よう筈がなかった。
 一目でわかるほど完全な死体なのだから。
 彼は、厚みを感じさせない程に潰れて壁に貼り付いていた。
 徳次の身体は関節の存在など無視して、手や足は不自然な方向を向いており、はぜた腹から飛び出した臓物が着物の合わせ目から垂れ下がっていた。頭も後ろ半分は完全に無い状態で、血に混じって飛び散っている灰色がかった桃色は脳漿か。しかし顔だけは奇跡的に無傷で、垢抜けない田舎の青年団員みたいな純朴そうな顔は、まだ血の気もそのままに泣いている様にも、笑っている様にも見える表情を浮かべている。
 口の中に苦いものがこみ上げてきて、気が遠くなっていくのを感じたが、克己の足は主を無視してふらふらと進みつづけた。
 近づくにつれ、むっとするような臭いが強くなってきた。ぽた、ぽたと血の滴る音が耳につく。
 もうショックを通り越して既に恐怖心は麻痺してしまったのか、自分でも不思議なほど冷静に克己は状況を観察にかかった。
 ほぼ真円に広がった血飛沫。ペンキを入れた風船をおもいきり壁に投げつけたら、丁度こんな風になるだろうか。凄まじいスピードと力で壁にぶつけられたのだ。そのまま人間が貼りついてしまうほど。
 そんな凄まじい力をもったものが存在するだろうか。まさに――――
 ぴく、と突然克己の肩が震えた。霊感が働く時、いつもこうなる。何か感じたのだ。
 頭の上に、ふわりと白い靄が現れ、密度を増すと、尾を引いて旋回しはじめた。
「徳次さん?」
 克己が呼び掛けると白い靄は動きを止め、更に密度を増して若い男の姿になった。徳次である。
 徳次は、克己を悲しそうな目で見て、壁の自分の凄惨な死体の方を指差した。正確にはその1メートルほど横……遠目に紅葉に見えた血の痕を。
 克己は少し躊躇ったあと、早足にぎりぎりまで近づいて、それをよく見た。
「こ……れは……」
 徳次が克己の手を指差した。
 言われるまでも無く、克己はそれが何であるのか判った。
(手?)
 それは巨大な、畳一帖はあろうかという人の手の跡だった。指紋や関節まで判るほどに鮮明な。
 なんとも巨大な手。小指だけでも克己の腕程もある。気の毒な青年はこの手で壁に叩きつけられたのだ。蚊のように。
 その様子を想像して克己は思わず目を閉じて首を振った。
 目を開けると、再び視野に徳次の惨殺死体が飛び込んできた。目を逸らし、手形の方へ注意をやる。
 こんなに大きな手をもつ者がいるとしたら身長はどのくらいになるのか。克己には考えもつかなかったが、はっきり言えるのは人間ではあり得ないということだけだ。
『鬼が絵から出てきたんよ!』
 母の言葉が蘇えってくる。
(――――鬼――――)
 まさに鬼の手形であった。
「ねえ……」
 どういう状況だったのか、当事者に聞こうとして振り向くと、既に徳次の霊は薄れ、消えつつあった。
「待って!」
 完全に消えてしまうまでに、徳次は最後の力を振り絞ったのか、一瞬元に戻って、
(あの人を……護ってあげてください。あのお友達の綺麗な人――――京都はあの人を待って――――)
 それっきり完全に消えてしまった。
「徳次さん……」
 克己はもう一度呼び戻そうか……と思ったがやめにした。消えてゆく時の徳次は穏やかな顔をしていた。運命を受け入れた者の表情。酷い死にかたであるだけに、これ以上留めるのは気の毒に思えたのだ。静かに目を閉じ、哀れな魂のために清めの言葉を呟いた。
 徳次の最後の言葉を思い出し、はっと克己は顔を上げた。
(あの人を護ってあげてください――――)
(京都が咲也を……? そうだ、咲也!)
 克己は身を翻して入口の方へ駆け出した。
 このような事があった以上、父の結界が何かの力によって破られたのだ。もはやこの神社も安全とは言えない。徳次が最後に言い残した様に、誰かが咲也を護ってやらなくてはいけないのだ。彼は身を護るものを何一つ持っていない赤ん坊と同じだ。もし、まだあの恐ろしい大きな手形の主がこの辺りにいるのだとしたら……
(咲也――――!!)
 風の様に神殿から飛び出した克己の耳に、禍々しい雷鳴が鬼の哄笑のように轟いた。

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まいるどタブレット小説 Ver1.13