ふるふると震えていたウサギは、鼻先を撫でてやると少し落ち着いたように私に寄って来た。臆病な動物が人に近づいてくるには、相当の勇気がいっただろう。

　とても可愛い。それに何か特別な力でもあるのだろうか、頭の中に直接響くような声で話をする。その声には高い知性が窺える。

「この子を助けてやりたい。こんなに大きいけど、お母さんと言ってるからまだ子供なのだ、きっと」

　男達の顔を見渡したが、皆少し難色を示している。

　ヴァファムが人間以外に何かするというのは、皆初耳だという。

「本当かな？」
「女王の事はどうするんだ？」

　寄り道になるかもしれないが、全く無関係でなく、ヴァファムが絡んでいるのなら捨て置くわけにもいかないと思うのだ。

　何よりも……。

『お母さんを助けて』

　その言葉に胸の奥底にしまい込んだ、自分の過去を思い出して胸が詰まる。この子はあの時の私と同じ。

　もし、今ならまだ間に合うのなら、助けてやりたい。

「……マユカ、なぜマユカにだけそのウサギの言葉がわかるのかは知らないが、君が訊いてみて。お母さんは何処にいるって」

　ルピアが何とも言えない表情で微笑んだ。わかってくれたのかな。

「ってか、ルピア。考えが読めるんじゃないのか？」
「僕が読めるのはマユカだけだ。後は呪いの式を忍ばせた女の子達だけ。あれ？　知らなかった？」
「……その件については後で話そう」

　まだ外していなかったのか。何か色々と問題な発言だが、今は置いておくとした。

「お母さんは何処だ？」
『お山の方。もうすぐ来る』
「？」

　イマイチわかり辛いが……動いているという事か？

「お山の方からもうすぐ来るって。少しこちらからも動いてみるか？」

　う～んとルピアが顎に手をあてて考え込んでいる。ほう、その頭は残念なだけでなく考える事も出来るのか。

　私も何か引っかかるものがあるのだ。二つの可能性。

　賢いヴァファムの事だ、一つは罠、そしてもう一つは……。

　その辺は迷探偵ルピア様も同じ見解のようだ。

「何か……僕の推理が正しければ、これは放置出来無い事態だ。女王に全く関係ない訳じゃない。まだ罠だという可能性も考えられはするが……皆、少し気合を入れていこう」

　一番気合の入ってなさそうな王様に言われてもピンと来ないな。


　ウサギがぴょんぴょん跳ねる後ろを、五人でついて行く。

　ふわっふわの尻尾が目の前で誘うよう弾んでいるのがいい眺めだ。

　……ウサギフェチになったらどうしてくれる。

「マユカはこういうのに弱いよね」
「え？　ウサギしっぽ？」
「そうじゃないよ。助けを求める子供とかさ。放って置けないでしょ？」

　下手にくっつくとまた投げられると警戒してか、つかず離れずで距離を置いて横を歩くルピアが前を向いたまま言った。

　コイツは知ってるんだろう。私の心の中を。

　今、このウサギに自分を重ねている事を。

「……まあな」

「僕達は『間に合わなかった人』にはならないよ。大丈夫」
「……」

　やっぱりな。

　私は小さい頃はとても喜怒哀楽の激しい子供だったと両親が言っていた。

　両親……育ての親の方だがな。実際は父の兄夫婦なので叔父と叔母なのだが、実の親のように接して育ててくれたので、私もお父さん、お母さんと呼ぶし、関係も悪くない。

　生みの親は私が五歳の時に死んだ。普通の会社員だった父、主婦だった母。空き巣狙いの強盗だったが、その日はたまたま父は夜勤明けで、私は風邪をひいて幼稚園を休んでいたから母もいた。鉢合わせて通報され、慌てた犯人が起こした悲劇だった。

　私を最後まで庇い、両親は目の前で殺された。助けを求めたのに警察が駆けつけるのが間に合わなかった。

　私は助け出された時も葬式の時も、一切声を上げて泣くことは無かったんだそうだ。

『おまわりさん、どうしてもっと早く来てくれなかったの？』

　ただ何度も何度もそう言っていたという。その辺は実はよく覚えていない。大人になってから聞いた話だ。

　だがその時から一切笑いも怒りも泣きもしない……実際は本人は嬉しかったり悲しかったりしても……感情を表情で表す事が出来なくなったみたいだ。自覚は無くても心に大きな傷は残っているのだろうと、育ててくれた両親も何も言わなかった。ただ心配は掛けてしまったと反省はしている。

　もう、過ぎた事だし犯人も捕まったし、自分も警察官になった。『間に合わなかった人』にならないように。それでもやはりこの無表情は直らない。

　同じく猫好きもその頃からの筋金入りだ。

　子供の頃、思い出しては悲しい思いをしていた私を唯一癒してくれたのが、引き取られた家の近所の猫だった。

　可哀想にとか、腫れ物に触るように接する人間と違い、何を喋るでも無く、犬の様に体中で愛情をぶつけて来るでも舐めたりするでもなく、こっちの都合関係無しに、気まぐれに寄ってきては意味も無く体をすりつけたり、ただひたすら横で寝るだけの猫。撫でようとするとぷいといなくなるくせに、また気がつけば傍にいて暢気にアクビをする。そんな絶妙の距離感がたまらなかった。

　ルピアはあの猫に似てる。同じ猫なんだから当たり前だが。

　知っていても余計なことは言わない。気まぐれに自分の都合だけで動くくせに、何となく傍にいると落ち着く気がする。

「ルピアはいい猫だ」
「ふふん。当たり前じゃない」

　前方でぴょんぴょんしてたウサギが止まり、前足を持ち上げて立ち上がる仕草を見せた。

『お母さん、来た』

　随分先だが、微かに丈の長い草が揺れている場所が見える。

「……このニオイ……すごい数のヴァファムがいる」

　グイルが微かに唸り声を上げている。

　やっぱりだ。

　推理は正しかったようだぞ、ルピア。

「幼虫の運び屋は下っ端に憑かれた人間じゃなく、ウサギだったようだな。なるほど、これで今まで見つからなかったというわけか」

　この奥にいるという小女王。一日に何百という卵を産み、そこから生まれた幼虫をあちこちの村や街に広げているのは、たった一匹の雌の虫。

　今までキリムの軍の情報部も、密かにその居場所を探っていたのに見つからなかった。先日第二階級という上部の幹部に吐かせてはじめてわかったというのはおかしいと思っていたのだ。

　そしてなぜ、こんな辺鄙な場所を選んだのかも。

　こんな人のいない場所を頻繁に運び屋の人間が行き来すればすぐにバレそうなものを。

　この立地。これこそが狙いだったのだろう。

　保護動物ゆえ、誰も手出しをしないこのウサギに街近くまで運ばせて、後は受け取りにくればいい。

　この子供のウサギの母親も、運び屋に選ばれてしまったのだろう。

　むう、虫のくせに本当に賢い。

「よし、ウサちゃん。少し離れて待ってろ。大丈夫、お母さんは助けてやるから」

　とは言ったものの。

　大人しく言う事を聞いてくれればいいのだが。

『お母さん！』

　こら、ぴょんちゃん、勝手に行くなって！

　大きな大きなウサギが立ち上がった。ひいいい、大人って更にデカイじゃないか！　立ったら三メートルくらいある！

　母親に駆け寄った子ウサギを、迎えるのかと思ったら母らしき大ウサギはそのまま体当たりをかけて突き飛ばした。

「ダメだ。あれも寄生されてるんだ」

「……子供の前だが、助けるためには仕方が無いな」

　殺しはしないまでも、少々手荒な事にはなるかもしれんな。

　まさかの対大ウサギ戦が始まった。

　そして私達は侮っていた。ウサギの強さを。