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故郷への帰還

2014/10/14 19:32

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 彼は何を見ても、何を食べても、何を聞いても満たされなかった。
 飢餓に苦しむ者の様に、砂漠で水を求める様に、満たされぬという思いが常に心に大きな黒い穴を開けていた。優れた力も容姿も頭脳も持って、国中で最も恵まれた王の子として生まれ、他に望むべく物など無い筈なのに。
 満たされぬ心の穴を僅かばかりでも埋めたのは、人の流す美しい色の血であり、極限の表情を浮かべて苦しむ姿であり、甘美な音楽のように耳に届く悲鳴だった。だからそれを求め続けただけなのだ。それなのに、勇者などと名乗る若者に聖域より下賜されたという剣で貫かれ、深い深い暗闇の底に身も魂もバラバラにされて閉じ込められるなど、彼には許せなかった。
 深い闇の底から舞い戻り、選りすぐって集めた素晴らしい体を手に入れて、再び地上に戻る原動力となったのは、今まで持った事も無かった一つの感情。
 復讐したいという感情。
 自分を地の底に閉じ込めた者達への復讐。それは心に開いた穴をほぼ埋めるほど大きかった。だがこれは瘡蓋のようにいつ剥がれ落ちるかもわからないものであると知ってもいるのだ。
 蘇り、また人々が逃げ惑い許しを乞う素晴らしい眺めを、泣き叫ぶ声が奏でる心揺すぶられる音を楽しむ彼は……いや、彼女は思う。
「早く来い。我を倒しに。返り討ちにしてやるから。その時こそ、この心は本当の意味で満たされよう」
 黒いドレスを着た美しい女は、城の玉座で妖艶に笑った。

「……酷い……」
 美しかった祖国の地を踏みしめた瞬間、リュノは眉を寄せた。
 放置されて久しい農地は荒れ放題、忙しく働いていた人々の姿もなく、道には人とも獣ともわからぬ骨が其処彼処にうち捨てられたまま。見たことも無い黒い不気味な蔦が地面を覆い、昼間というのに何か黒い霞がかかったような空は空気さえも薄汚れて息をするのも躊躇われる。
 長い月日を掛けて辿り着いた聖域からの帰り道は、僅か数日という短いものだった。あの別れの谷の黒い翼に姿を変えた大聖者に運ばれ、|東風《ウノイ》の聖者の力も借りてあっという間だった。
 砂漠を超え、トクヴァンに着いてすぐ、一行は地に足をつけ歩き出した。城に直接乗り込む前に、国の様子を見たいというリュノの願いからだった。
「昼間なのに凄い妖気が満ちていますね」
 見慣れた人の姿に戻ってシリエスタが言った。どこから見ても普通のひょろりと背の高い頼りなげな青年にしか見えない。
「本当に一緒に来て良かったのですか? 大聖者様」
 少々呆れ気味でルミナスが声を掛けると、悪びれた様子も無く何時もの人懐っこい顔で笑って自分を指して見せた。
「私の何処が大聖者に見えますか? 言ったでしょう、もう位は捨てたと。今は普通の人間です。皆さんお気になさらず。さあ、行きましょう」
 普通の人間は大鳥になどなれぬぞ、そう言いたいルミナスとキーンであったがそこはぐっと堪えて気を入れなおしてリュノの後を歩き始めた。
 乙女の姿では戦えぬと、リュノはまた少年の姿に戻っている。銀の剣を腰に下げ、真っ直ぐに前を見て城を目指す。
 その様子を伺う様に、黒い霧から生まれた魔物が空から見下ろしていたが、城に向かって飛び立ったのに四人は気付いていただろうか。
 散々な有様の町を過ぎ、目の前に城が見えて来た。
 リュノやルミナスの思い出の中にある、東の白い至宝と謳われた城とは似ても似つかぬ、真っ黒で不気味な妖気漂う城。
 城門の前にリュノが立つと、手も触れぬのに重い扉が開いた。
 入ってすぐの広場の様子に四人は息を飲んだ。
 以前ここは周りを咲き乱れる花が囲い、白い石が敷かれた明るい広場であった。祭りの度に王や王妃がバルコニーから手を振るのを、賑やかに人々が見上げる場所。今も人は大勢いる。ある意味ではたった今も祭りが開催されている。
 手枷足枷をつけられ、力なく俯く人々。白い石畳の広場は赤黒く汚れ、広場の隅には目を覆いたくなるような躯の山が築かれている。ここで何が行われていたのかは一目瞭然だ。
 羽根の生えた魔物が居並ぶ人々から次の者を選びその枷を外すが、それは勿論解放するためでは無い。鋭い剣を渡された者は広場の中央に進み、反対側から同じく出てきた者と対峙する。どちらの顔にも戦う意思など無く、逃げる事も出来無い絶望に彩られていた。逃げても狩場に放たれる。ここで勝てば少しばかりは命が延びる、その思いだけで剣を握る人々。
「やめろ!」
 キーンがまず飛び出した。そしてリュノも。
「もうこのような事をしなくてもいい。トクヴァンの王が子、リュノはたった今聖域より帰って来た!」
 鈴の様な声が響き、俯いていた人々は顔を上げた。
 広場の中央に光り輝くような銀の髪の姿を見て、死を待つばかりだった人々は立ち上がった。
「……おお、姫様が……聖域から戻られたのか……」
 横ではルミナスとシリエスタが人々の枷を次々と外し、キーンは魔物を金の剣で斬り捨てている。
「我の楽しみを奪うな」
 広場の上のバルコニーからぞっとするような女の声が響いた。
「王の間で待っておる。上がってくるがいい」
「私とリュノ様で参ります。キーン殿とルミナス殿はここにいる方々と魔物をお願いいたします」
 シリエスタが告げると、金の髪の英雄と銀の髪の射手は頷いた。

 城の階段。ここはリュノにとって忘れもしない場所。
 月の明るい美しい夜だった。紫の可憐な花を籠にいっぱい抱えて駆け上った姫君はここで大事なものを失くしたのだ。
 一段一段上がる度に重くなっていく足。それは恐ろしさからでは無く、暗い闇の魔力によるものであったが、リュノは歯を食いしばって上り続けた。
「嫌な仕掛けがしてありますね」
 シリエスタはひょいとリュノを抱き上げてすたすたと階段を上がっていく。普通の人間だと言い切るわりに、強い魔力も彼には通用しないようだ。
「自分で歩けます」
「私がこうしたいのですよ」
 その正体を知っているだけに、微笑まれるとリュノは何も言い返せない。自分は酷く恐ろしい事をしてしまったのではないだろうかと思う。
 世界を見守る筈の大聖者に胸の内を聞かされるなど、自分だけを守りたいなどと言わせてしまった事は大きな罪ではないのだろうか。神殿を離れ、やがてその聖なる力も、長く長く約束された命も失って普通の人間として短い生を全うするなどあってもいいのだろうかと。
 だが出来る事ならずっと側に一緒にいたいのは自分も同じなのだという想いをリュノも否定する事は出来無い。こうしてこの腕に抱かれているのが嬉しい。シリエスタが言った様に、この度初めてたった一人を守りたいと思ったという気持ちはリュノにも痛いほどわかるのだ。それが恋というものだと二人ともまだ気がついてはいない。
 階段を上がりきり、王の間に到着した二人の目にまず入ったのは、石になってしまった王と王妃の姿だった。
「お父様、お母様……」
 あの日のまま、二人の姿は変わることなく、身を寄せ合い恐怖に歪んだ表情のまま動く事は無い。ただ、掛けていた玉座ではなく、まるで邪魔だからどけたと言わんばかりに石の段に置かれているのだ。
 王の代わりに玉座に掛けているのは真っ黒の長い長い衣を来た女。言うまでもなく女の姿で蘇った闇の王子である。
 艶やかな濡れた様な黒い髪と対照的な真っ白の白磁のごとき肌、血の色の唇。緑の珠を填め込んだような目がキラキラと輝く。美しすぎて毒々しくさえ見える笑みを浮かべて闇の王子は立ち上がった。
「待っておったぞ。ふふ、可愛らしいお姫様。おおっと失礼、女でもないのに姫様とは言えぬな」
 言い返す言葉も無く、キリッとリュノは唇を噛んだ。
「これはこれは大聖者様までご一緒とは。宜しいのですかな? お山を離れて人に手を貸しても。人の姿に変わっていても私の目は誤魔化せぬぞ」
「別に誤魔化す気など無いですから。山は降りた。私はもうその様な名で呼ばれる者ではないので、心置きなくあなたを斬れます」
 にべもないシリエスタの応えに、赤い唇がほんの少し笑みを失った。
「……かつてバラバラにされ、闇の底に封じられた恨み、忘れてはおらぬぞ。そちらから来てくれるとは、手間も省けようというもの」
 白い女の手が持っていた扇をひらりと返すと、黒い霧が生まれ、部屋中に妖しい影が犇いた。
「リュノ様、参りますよ」
「うん」
 二人は剣を抜き、まず部屋に現れた魔物を斬りはじめた。不気味な手があちらこちらから伸びてリュノとシリエスタを掴もうとするが、百一の祝福を受けたリュノの周りには光の膜が生まれ、穢れた闇の力は届かない。
 ひらひらと舞う様に身軽に剣を操るシリエスタは特別な力など使わなくとも低級の魔物など敵うはずも無く、剣に籠められた神聖な光で次々と消え去ってゆく。
「ほう、やるな」
 今度は闇の王子が扇を宙に放り投げると、くるくると回転しながらリュノめがけて飛んで来た。危うい所でかわしたが、扇が掠った柱はすぱっと切れ、僅かにずれた。当れば首くらい簡単に飛んでしまうだろう。
 回転する扇は止まる事無く再びリュノとシリエスタを目指して飛んでくる。何度かわそうと意思を持った生き物であるかのように戻って来る。剣で叩き落そうとしたが、激しい回転にリュノの力では剣の方が跳ね返されてしまう。
「危ない!」
 ほんの少しよろめいたリュノに扇が当るという瞬間、シリエスタが庇って入り、その胸を掠めた。
 すぱっと服が切れ、赤い傷が走ったが、しつこく戻ってくる扇を今度は剣で下から突き上げると、要を突かれた扇はやっと止まり、ばらっと床に落ちた。
 胸を押さえて膝をついたシリエスタの指の間から赤い血が滴り落ちた。
「シリエスタ!」
「大丈夫です。リュノ様はお怪我はありませんか?」
「うん……でも……」
「ほう、血も涙も無いと思っていた大聖者にも赤い血が流れているのだな」
「その言葉はあなたにだけは言われたくないですね」
 減らず口を叩く元気は残っているようだ。リュノは少し胸を撫で下ろしたが、かなりの深手の様だ。あまり動かさない方が良さそうだ。後は自分が戦うしかない、そう決意したリュノだったが、玉座の前にいた黒い姿が一歩踏み出したのに身を固くした。
 黒衣の美女がふっと赤い唇から黒い息を吹くと、長い黒い剣が現れた。
「もう少し楽しませておくれ。血の色を見せておくれ。この可愛い姫の苦しむ顔はさぞ素晴らしいだろう。悲鳴はどんな音楽よりも良い音だろう」
 剣を握り締めて女が妖しく笑う。
 リュノは銀の聖剣を握り、女に向き直った。この時のために、長い長い旅をして、幾つもの試練を超えて聖域に行ってきたのではないか。
 父を、母を、多くの民を救うために、大事なものを取り戻すために。
「負けはしない!」
 剣を構えてリュノは駆け出した。

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まいるどタブレット小説 Ver1.13