剣の山
2014/10/14 19:32
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花畑の中を続く赤い道。
空は晴れわたり、そよそよと吹く風は咲き乱れる花の香りを乗せて、道を行く二人の白い頬を、銀の髪をやさしく撫でて行く。
時折聞える鳥の声と風が葉を揺らす微かな音しかない静寂の世界。
こんなにも美しい世界を暗い顔をして歩いている二人の間にほとんど会話も無い。
口を開けば泣き言か、悔やむ言葉しか出て来ない。
だから黙ってただ歩くのだ。
ほんの少し前まで四人いた。辛い旅ではあったけれど、それなりに賑やかで楽しかった。それが三人になり、そして二人に。旅立った時はたった一人、長くその後は二人で旅をしてきた。今と同じの筈なのに、何故こんなにも寂しさが違うのだろう、リュノは思った。
別に相手が違うからと言う訳では無い。シリエスタよりもむしろ生まれた時から同じ国で兄弟の様に育ったルミナスの方が、気心も知れているはずだ。なのにどうして? 人を失うという事がどれだけ辛いかを、改めて思い知らされた気がするリュノだった。
気がつくと動かなかったはずの右手が自由に動いていた。その事が何を意味するのかわかった時、リュノは走って戻ろうかとも考えたがやめた。
「思いを無駄にしてはいけません」
短く、ルミナスに言われた。
一方、ルミナスもまた、心の内に暗い覚悟が固まっていた。
もう誰もいなくなった。主は自分が守らなければ。そして無事あの山頂の神殿へ辿り着いてもらわなければ。もしも途中で息絶えようと、それで主の目に光が戻るならばそれはそれで無駄にはならない。むしろキーンの代わりに自分があの場に踏みとどまっておくべきだったのだ。目が見えればいかにか弱いリュノでも身が軽く簡単な魔法も使えるので楽だったろうに。だが自分の腕を見てそれは無理だったと思った。
この弓を引くには充分な筋肉はついているが、キーンの半分ほどしかない細い腕であの石をとどめるなど出来ただろうか。出来まい。トクヴァンの民は他の国の者に比べて華奢で非力だがその分魔力が強い。それが故に闇の王子の様な異端の者を生み出したのだ。
残ったのは同じ国の者。これも定められた運命なのだろう。もう殉じる覚悟はルミナスにはとおに出来ている。
黙って歩く二人の前に険しい山が迫っていた。
遠めには白っぽい岩肌に見えていた山の斜面が、傾きかけた早い夕方の日に不自然に煌いている。その光の元が何かを知った時、ルミナスは全身の血が凍る思いだった。
この山が何故『剣の山』と呼ばれるのか。それが一目でわかったから。
近づくにつれその恐ろしい姿が露になってきた。
道もこの先続いてはいる。先程から段々と道幅が狭くなってきたと思っていたが、この先は更に細くなっている。もはや道というより一筋の線というところか。丁度足の幅ほどしかない細い筋。
その両側、山の斜面を埋め尽くしているのは尖った剣の切っ先。びっしりと隙間無く上を向いて並んでいる。そう長い刃では無いが、足の甲くらいは簡単に貫きそうだ。一歩でも踏み外したらどうなるのだろう。均衡を崩して手をついたり、倒れればどうなるだろう。何と恐ろしい場所であろうか。
だが幸いリュノの足は小さい。慎重に進めばそう簡単には細い道からはみ出る事は無い。赤い道はリュノにも見える。他に何も障害が無ければ、ルミナスが支えてやればよいのだ。
「リュノ様、剣の山に着きました。ここからは真っ直ぐ、赤い道だけを進んでください。細くなっておりますが決して踏み外してはなりませんよ」
「道は見えるから大丈夫。道の外はどうなっているの? 踏み外すと危険なの?」
一瞬説明するのを躊躇したルミナスだったが、言っておかねばなるまい。
「ここは剣の山。生えているのは草でも木でもございません。全て剣の刃」
「……恐ろしい所なのだね。わかった。気をつけるよ」
リュノは抱えていたシリエスタの剣をもう一度強く抱きしめ直した。
この山を登りきれば長く目指し続けて来た神殿。一歩一歩慎重に上り続けるリュノの後をルミナスは行く。主がよろけても受け止める覚悟で。
このまま他に何も無ければ、意外とすんなりと上に着けそうな気がしてきたと二人が安心しかけた時、何かが風を切る音が聞えた。
ここは神殿への最後の関門。そうたやすい物であろうはずも無かった。
ビュッ、と白い小さな影がリュノの肩先を掠めていった。
早すぎてルミナスにもそれが何であるのか見えなかったが、次の瞬間にリュノの服にすぱっと切れ目が入った。
「痛っ……」
押さえた白い手の指の間から赤い糸が零れ落ちた。
「リュノ様!」
「大丈夫。何だろう、今のは」
目を凝らして辺りを探るルミナスの良く見える目が空を飛ぶ小さな影を捉えた。
それは翼を持った小さな白い竜だった。鋭い爪は剣の刃の様に薄く長い。
高速で今度はルミナスめがけて飛んでくる。あまりの速さに普通の者なら見えもしなかっただろうが、国でも一番目の良い弓の名手には追えた。
かわして背にしていた弓を構え、素早く矢を番える。
「そこか!」
きゅん、と小さな声を上げて竜が落ちた。
竜の最後の声が仲間を呼び寄せたのか、今度は背後から数匹が現れた。
「リュノ様、飛び回る竜がいます。身を低くして止まらずお進みください」
「わかった」
少し身を屈めて、慎重に赤い筋をリュノが辿る。
弓を持ったルミナスだけを狙うように、竜が飛び交う。リュノの身を案じていたルミナスにとっては有難い事であったが、さすがに数匹まとめてこられては全てはかわしきれずに肩や背中に幾筋かの赤い線が走った。
それでも怯む事無く弓を引く。確実に射ち落として数を減らしていくが、矢が足りるだろうか。
振り返るとリュノは随分と進んだようだ。良かった、あれから主を襲った竜はおらぬようだ。
ほんの少し安心して次の矢を番えようとしたルミナスは横手から何かに激しく突き飛ばされた。
「うわっ!」
倒れはしなかったが、均衡を崩して道から踏み出した足は無数の刃に貫かれた。
悲鳴を上げそうになったがルミナスは咄嗟に口を押さえた。リュノに聞えたら心配して戻って来てしまうかもしれない。そっと足を持ち上げて刃から引き抜くと、気が遠くなるほどの激痛が走った。
「何かあったの? ルミナス」
主はまだ気づいておらぬようだ。良かった……ルミナスは胸を撫で下ろした。
「まだ何匹か竜がおりますので矢で退治してから参ります。リュノ様はお気になさらず早くお行きください」
「……血のにおいがするよ」
リュノがとても鼻がいいのはルミナスも知っている。
「私もリュノ様と同じく、竜の爪に引っ掻かれて軽い切り傷が出来ました。後は仕留めた竜の血でしょう」
「そのくらいなら良いのだけど……踏み外さないでね」
「ふふ、気を付けますよ。リュノ様こそお気をつけくださいね」
返って来た声が明るかったので、胸を撫で下ろしてリュノは再び歩き出した。
先程ぶつかって来たものがもう一度戻って来た。他の竜よりも大きな竜。
「怒ってるな。小さいのの親か……」
少し気の毒にも思えたが、こちらも命が懸かっている。ルミナスは矢を番えて、まずはリュノの方へ向かおうとした小さい竜を射た。
「すまぬ、許せとは言わぬ。我主の歩みを妨げるものは倒さねばならぬのだ」
大きな竜は更に怒ったようだ。また全身で体当たりしてくる。慌てて矢を射たルミナスだったが、急所を外したらしく竜は止まらなかった。
どん、と激しく突き飛ばされてまた道から踏み出した。
「……!!」
必死で声を殺したが、立っていられずまた膝をついた。新たに刺さった刃の痛みに身を捩る。それでもルミナスは声を上げなかった。主に心配をかけてはいけない。
見渡すともう小さな竜はいない。あの大きな竜さえ仕留めればよい。そう思って腰の|箙《えびら》を探り、愕然とした。
残りの矢はもう後一本。
確実に仕留めなければ。何とか立ち上がったルミナスだったが、痛みで足も手も震えて力が入らない。
この痛みに震える手で正確に急所を突けるだろうか。目も少し霞んできた。
竜も急所は外れていたものの、首根に既に一本矢が刺さっておりかなり弱っていた。だが可愛い子供達を射ち落とした憎い人間を許してなどおけるものかと、再び飛び立ち、射手に突っ込む。
狙いを定め、ルミナスが最後の矢を射る。
それは見事竜の眉間に刺さり、射ち落としたかに思えた。
竜は最後の最後で道連れにするかのようにまともにルミナスの上に落ちて来た。
足が動かず、避ける事も出来ずに、ルミナスはそのまま竜と共に刃の上に背中から勢いよく倒れこんだ。
「!!」
悲鳴もあがらなかった。
声すらも出ないほどの痛みが全身を貫いた。
身を起こそうとしたが無理だった。背中も腰も腿も、全てに刃が刺さっている。身じろぎすら出来無い。
これはもう取り返しがつかないとルミナス自身には一番よくわかる。
いっそもう少し刃が長ければ一息に死ねたのにとルミナスは思った。この中途半端に鋭く薄く短い刃は、じわじわと命を削るために最適な長さではないか。
息絶えた竜の親が腹の上からずり落ち、その僅かな衝撃が更に激痛をもたらした。
「うあ……」
堪えていてもルミナスの口から声が漏れた。
小さな声だったが、さすがに今度はリュノも足を止めた。
「ルミナス?」
もう朦朧としてきた意識の中でも、ルミナスの声は翳らなかった。
「リュノ様そのままお進みください。もうあと僅かで神殿に着きますよ」
「ねえ、どうしたの?」
「ほんの少し踏み出してしまっただけです。大した事はありません。歩けますが遅くなります。すぐ後で参りますので……先に……お願いです」
「でも、怪我をしたのでしょう? 一緒に行こう」
自分の方に戻って来ようとするリュノが見え、ルミナスは力を振り絞って叫んだ。
「戻ってはいけません! 私は……足手纏いになりたく無い。気持ちを察していただけるなら、先に進んでください」
「……」
納得がいった訳では無いが、リュノは言葉に従って歩き始めた。
その姿を見届けて、ルミナスは大きく息をついた。もう言葉も出ない。先程までの炎に炙られ続けていたような痛みすらも、もう感じなくなってきた。
「……私でも少しはお役に立てましたか? 皆の所に行っても良いですか……」
声はもう出なかったが、細い息と共に微笑んで呟く。
すでに輝きを失いはじめた若草色の目がゆっくりと閉じた。
随分歩いたが、一向にルミナスが追いついて来ない。後ろに人がいる気配も無い。
「まさか……!」
しばらくして自分の体の異変に気がついたリュノは恐る恐る目を開けた。
赤い道以外、闇に閉されていた視界に景色が映る。
銀色に光る山の斜面も、すぐ目の前に迫った神殿も。
目が見える。
これが意味するのはたった一つ。
玉の川で一人減り、剣の山でまた一人
辿り着けるはだた一人
辿り着けるはただ一人。
ついにリュノはそのただ一人になってしまった。
振り返らなかった。振り返れば最も見たくないものを見るのがわかっていたから。その姿を見て欲しく無いと最も望んでいるのはルミナスだとわかったから。
もう、リュノの目からは涙すら流れなかった。壊れる寸前の心を占める悲しみよりも何よりも、強い怒りだけが足を動かし続けた。
「こんなの……こんなの嫌だ! 何が聖域だ、何が試練だ! 酷いじゃないか! もう祝福などいらない、どうなったって構わない。キーンじゃないけど、絶対に大聖者であろうと文句を言ってやるんだ!」
あとほんの少しという所で道すらも途切れた。
それでもリュノは進み続けた。足に刃が刺さろうが、血が出ていようが、もうどうでも良かった。痛みすらも感じないほどの絶望と怒りに支配されているのだから。信じて、信じ続けて来たものに全てを裏切られたという絶望。
どうして仲間の命を奪わねばならないのか。皆、どうして自分一人に後を任せて先に逝ってしまうのか。こんな気持ちにさせるためなのか? 思いを無駄にするなとルミナスは言ったが、自分のこの思いはどうすればいい? リュノは最後は身を呈して道を開いた仲間にまでも怒りを覚えた。
足はもう傷だらけで歩いているのが不思議なほどだったが、それでもリュノは最後の一歩を踏み出してついに神殿に辿り着いた。
国を救う力を授かりに来たのでも、祝福を受けに来たのでも無い。
ただ大聖者に恨み言を言うためだけに。
「生きて辿り着いたぞ! 出て来い!」
花の様な顔はもう鬼の形相になっていた。銀の髪を振り乱し、怒りを露にした大声で叫んだ。神殿の澄み切った空気を震わせ、リュノの声が響く。
外はまだ陽が沈みきっていなかったのに、神殿の天井には無数の星が瞬いていた。その天井からは柔らかな透きとおった虹色の天幕が幾重にも垂れ下がり、磨き上げた真っ白な石の床も柱も眩く煌き、何とも言いようの無い芳香が漂う。確かにここが聖なる場だと誰もが納得するであろうそんな空間。
神殿の奥に白い階段がある。星まで届いているかのように何処へ向かう階段なのかもわからない。
その段を静かに滑る様に降りてくる人影があった。
「数々の試練を乗り越えよくここまで来ました。待っていましたよ、トクヴァンのリュノ王子……いえ、リュノ姫様」
この声は……。
文句を言う言葉も失ってリュノはその場に立ち尽くした。
声の主、大聖者が星の河に例えられる長い長い黒い髪と真っ白な衣を引きずり、ゆっくりと段を降りて現れた。
そのリュノがよく見知った顔に人懐っこい笑みを浮かべて。
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