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玉の川

2014/10/14 19:32

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「おお、なんと良い眺めでしょう」
 登り勾配の道を行く。既に丸一日歩き続けてきて、振り返ると崖の下に大きな虹が掛かっていた。
「キーン、何が見えたの?」
「虹ですよ、リュノ様。大きな橋の様に崖下の川に虹が掛かっています。もっと早く掛かってくれていたらあれを渡ってこられたのに」
 見えない相手にキーンは上手に説明するな、ルミナスは感心して聞いていた。ともすれば沈みがちになるリュノに、シリエスタほど饒舌では無いが、キーンが明るく力強い声で色々と語りかけるのを聞いていると心が和む。
「虹の橋か。渡れたら素敵だね」
 ほんの少しリュノの顔に笑みがのぼった。
 ここが聖域とは思えぬ程に殺伐とした、草木も見当たらぬ岩だけの断崖絶壁の道。道幅も狭く、足を踏み外せば命は無いだろう。唯一の救いは他の聖域への道と同様、赤毒竜の鱗で舗装され、目の見えぬリュノにも道だけは光って見えている事だろうか。
 片手でずっと大事そうにシリエスタの剣を抱きしめて歩くリュノが辛そうになってきたので、キーンがそっと抱き上げた。
「降ろして、大丈夫だよ。荷物も持ってるのに重いだろ?」
「リュノ様は本当に軽いですよ。王子様と言うよりお姫様を抱いているようです」
 キーンは軽い冗談のつもりで言ったのだが、リュノとルミナスの表情が俄かに変わって、言った本人が一番驚いた。
「あの、お気に障りましたか?」
「……ううん、何でも無いよ。そうだね、僕はもっと強く男らしくならないとね」
 何か誤魔化す様にリュノが笑った。
「リュノ様は強くおなりですよ。遠くここまでいらしたではないですか」
「そうですとも。立派な王子ですよ」
 キーンが納得した様なのでルミナスも胸を撫で下ろした。
 崖縁の道は続く。
「おや、こんな所に……」
 ルミナスが岩の隙間から芽吹いた小さな花をみつけた。紫の可憐な花。
「ファムの花ですね。たった一輪ですがとても可愛らしい」
「……懐かしいな。お母様の作ってくれたファムの花のお茶は美味しかった」
「……」
 また余計な事を言ってしまったかとルミナスは少し後悔したが、リュノの表情は翳らず、寧ろ機嫌が良い様だ。その薄い紅の花びらにも似た唇から歌声が漏れた。

  ファムの花を摘みましょう
  銀の籠いっぱいに
  ルノアの月のそのまた向こう
  聖域の聖者様に届けましょう
  玉の川を越えて、剣の山を越えて
  山の上では大聖者様が手を広げ
  微笑んで待っている

 鈴の様な澄んだ声が響いた。久しぶりに聞くリュノの歌にしばし英雄と射手は目を閉じ聞き惚れていた。
「銀の籠いっぱいの花はありませんが、この一輪を摘みますか?」
 キーンが訊くと、リュノは小さく首を振った。
「一生懸命咲いた命はそのままにしておこう」
 その言葉にキーンとルミナスは深く感慨を受けて何度も頷いた。
 キーンに抱かれて少し疲れのとれたリュノは、また再び自分の足で歩き始めた。
 しばらく道を行くと、サラサラと不思議な音が聞えて来た。
「水の音?」
 歩を進めるにつれ、段々と大きくなっていく音は、水の音にも聞えたがもっと違う何かだと三人は思った。道幅は少しづつ広くなってゆき、開けた台地に出た。
 今までの殺伐とした岩ばかりの眺めから一転、背の低い草が茂り、色とりどりの花の咲き乱れる野原が広がっている。
 神殿のある山ももうすぐ側まで迫った。その足元に広がる、何処までも続くような淡い色彩の花畑。まさに聖域と呼ばれるに相応しい穏やかで美しい眺めだった。花の香りもそよそよと吹く風も心地よい。
「川ですね。音の出所はあれでしょう」
 花畑の中、赤い道を遮るようにキラキラと陽を受けて虹色に輝くのは一筋の川。そんなに大きな川では無いが飛び越すには少々幅がありすぎる。橋はどこにも見当たら無い。道は川の向こうに続いている。だが浅く穏やかそうだ。中を歩いて行っても溺れる心配は無いだろう。何より流れているのは水では無かった。
「細かい石です。この川は沢山の宝石が流れているのですよ!」
 赤、緑、青。黄色に紫に透明。様々な小さな宝石の玉が流れる不思議な川。
「これが玉の川ですか。何と美しい……」
 見えぬリュノにもそれは夢のような眺めであろうと想像はついた。
 さらさら、からから。響いてくる音も心地よい。
 だが、ふとシリエスタと共に聞いた、深い森の精霊たちの歌が思い出された。

  別れの谷を過ぎたなら
  玉の川で一人減り、剣の山でまた一人
  辿り着けるはだた一人

 こんなに穏やかで美しい場所で仲間が一人減るというのだろうか。美しいのは見た目だけで何か恐ろしい物でも潜んでいるのだろうか。リュノは不安になった。
「キーン、ルミナス、石に触れてはいけないよ。嫌な予感がするんだ」
 その不安はすぐに目に見える形で現れた。
 首の長い、白く美しい鳥が川の向こう岸に舞い降りた。水も無く、魚もおらぬ川を確かめる様、細い足を踏み入れた途端に様子が変わった。川の宝石に触れている部分から少しずつ透明に変化してゆく。宝石に変わってしまったのか。
 もがく鳥の声が辺りに響いた。その声も虚しく頭の先まで透き通った石に変わり、翼を広げた鳥の形の精巧な彫像と化した。
「これは……触れれば石になるのか」
 迂闊に足を踏み入れれば、自分達もあの鳥と同じく石の彫像になってしまう。目の前の鳥の末路にキーンとルミナスは凍りついた。リュノには見えてはいなかったが、声は届いていた。美しくも恐ろしいこの川の正体を知るには充分だった。
 だがこの川を越えねば先には進めない。道は続いているというのに。
「ああっ! 何か来る!」
 どこか通れる所は無いかと川の上流の方を見ていたルミナスが声を上げた。まだキーンには見えぬ距離であったが、微かに異常な振動を感じていた。
「少し離れてください!」
 静かで穏やかな風景は一変した。
 ごろごろと低い音を立てて、川を下ってくるのは巨大な石。これもまた宝石の様だが、人よりも大きな玉。それも一つや二つでは無い。水に例えるなら穏やかに流れていた浅瀬が激流に変わったというところか。
 先程の鳥の像は大きな石に踏み敷かれて粉々に砕け散った。それでも、止め処なく上から転げて来る巨石は止まらない。暫くの間大きな石が転げて行くのをただただ眺めていた一行は、やっと静かになった川の前で絶望に包まれていた。
「この川をどうやって渡れと……」
 考え込んで、皆が黙ってどのくらいの時間がたったろうか。
 もはやこれまでという状況の中、キーンが一歩踏み出した。
「リュノ様、行きましょう」
 突然言い出した言葉にリュノとルミナスが困惑していると、精悍な顔をふわりと緩ませて笑顔を見せた。悪戯っ子の様な笑み。
「良い事を考えついたのです。さっさと川を渡って上の神殿に行き、相手が聖者様であろうと文句を言ってやりましょう。試練かもしれませんが少々酷すぎませんかと」
 不謹慎な言葉ではあったが、ルミナスもつられて頷いてしまった。確かにキーンの言う通りかもしれない。
「思いついた良い事とは?」
 リュノが訊くと、キーンの笑みは更に深くなった。
「生きたものが駄目ならば、剣の上を渡ってゆけば良いでしょう。俺の剣は長くて太い。水では無いので沈まぬでしょう」
「キーン殿の命の様に大事な剣を踏んで行くなど出来ましょうか!」
 ルミナスが声を上げた。リュノも頷き、そんな事は出来ないと思った。
「ならばこれを変わりに使えばいいじゃないか」
 リュノは大事に抱きしめていたシリエスタの剣を差し出した。キーンはそっと押し戻し、首を振った。
「それは駄目です。命を懸けて先に進ませてくれた男があなたに預かってくれと託した物でしょう。結界を破る時にも力を貸してくれた聖剣。それに細くて短い」
「……」
「大丈夫。俺がまず真ん中まで行きますので、身の軽いリュノ様とルミナス殿を向こう岸まで放り投げて差し上げますよ」
「大きな石も来るのだよ?」
「平気ですよ。さあ、日の傾く前に向こう岸へ参りましょう」
 剣は捨ててもその身が無事ならばと後の二人も納得したが、何時にも増して明るい口調のキーンに余計に不安になった。まさか密かに覚悟を決めているのではあるまいか、ルミナスにはそう思えてならなかった。
 慎重に川の側に近づき、キーンは剣をそっと川に投げ入れた。
 沈むことなく、真っ直ぐに上手く流れに垂直に落ちた剣は、短すぎる金色の橋になった。石と化すわけでも無い。やはり命の無いものには反応しないようだ。大きな石が転げて来る気配も無い。
「では行きます」
 キーンが大きな体に似合わぬ軽い動きでつま先で剣の上に飛び乗った。ほんの少しバランスを崩し、落ちそうになったのをハラハラして見ていたルミナスも、川の中ほどでしっかりと立ったキーンの姿を見てホッと胸を撫で下ろした。
「ルミナス殿、先に行ってリュノ様を向こうから受け取ってくれ」
 言われてルミナスが先に行く事になった。背がそこそこ高いルミナスの手でも簡単には届かなかった。双方が必死に身を傾けてやっと届いた。だがやはり剣の幅は狭すぎた。足先がほんの少し川の石に触れた事には誰も気がつかなかった。
 いや、キーンは気がついていた。元より無理だとわかっていたのだから。微かに上流で何かが動き出した気配も感じていた。
 何とかルミナスの手をしっかり掴んで、思いきりよく引き寄せると、キーンはそのままぽい、と向こう岸まで放り投げた。
 思いきり草の上に尻餅をついたルミナスだったが、文句は言えない。
「すまんな乱暴な事をして」
「大丈夫です。ありがとう」
 次にキーンはリュノに手を差し出したが、その時上からごろごろと音が聞えて来た。
「大きな石が来る! 早く!」
 ルミナスの声が響く。
 キーンは慌ててリュノに手を差し出したが、もう間に合いそうに無い。届かない。リュノは体が小さくおまけにこちらが見えていないのだ。もう剣の事など忘れ、数歩踏み出してリュノの手を掴むと石に変わりかけた足を引きずり片手で抱き寄せて、もう片方の手で転げてくる大きな石を止めた。
「ルミナス殿!」
 川縁ぎりぎりまで身を乗り出したルミナスに無事リュノを手渡した頃にはキーンの足は膝ほどまで透き通った宝石に変わっていた。
 大きな石を両手で押しとどめる形で、キーンが固まっている。
 すぐに助けに行こうとしたルミナスだったが、ここで二人共同じになってしまえば、リュノはどうなるのだろう? 足を踏み外して川に落ちまいか? 一瞬にして考えが巡り、その足を踏み留めた。
「リュノ様、すぐに追いつきますからね。先に行っていてください」
 もう半分ほど石になってしまっている男とは思えぬ、優しい口調だった。
 ルミナスの目を見て、何も言わず小さく頷いたキーンはもはや覚悟を決めた様だった。その目が語っていた。
「主には内緒に」
 それを察して、ルミナスは涙を堪え、頷き返した。ここで泣いてはいけない、ここで引き返してはいけない。身を呈して仲間を行かせた男に失礼ではないか。
「キーン、なぜすぐに来ないの?」
「少し足を挫いた様です。さあ、先に行って待っていましょう」
「でも……」
 下手ないい訳だとリュノにもわかった。
 少し乱暴にも思える勢いで、手を引くルミナスに逆らえず、歩き始めたが……。
「キーンは? まさか落ちたのではないだろうね?」
 ルミナスは返答しなかった。
 振り返ると光り輝く像と化したキーンが、大きな岩を押し戻す形で静かに立っているのが見える。双頭竜をたった一人で倒したという英雄らしい力強い姿。
 だがそれはあまりに美しく、残酷な眺めだった。
 主がそれを目にすることなく済んだ事を感謝し、また改めて自らの目が見える事を後悔するルミナスだった。

  玉の川で一人減り、剣の山でまた一人。

 目指す神殿まであと少し。その手前に剣の山が待っている。

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