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精霊の森・別れの谷

2014/10/14 19:31

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 赤い道は鬱蒼と茂った木々の間を縫うように続く。

  聖者(ライマラルタ)の髪は星の河
  瞳はモリエの月より輝き
  朝告鳥(ヒュキュイ)の声より響く声は
  世の理(ことわり)を唄う

 薄暗く、空さえも見えない森に木霊するのは唄う声。
 キーンの肩に担ぎ上げられ、ちょこんと腰掛けたリュノの姿は大木にとまった小鳥の様にも、森に棲むという精霊の様にも見える。
「綺麗な声ですね、リュノ様は。もっと唄ってください」
「……キーン、重くない? 自分の足で歩けるよ」
「剣よりも軽いですよ。道の外はあちこちで木の根が邪魔しておりますから、足を引っ掛けると転んでしまいます」
 大きな体に似合わぬ心配性に、竜馬を引いて後ろを行くシリエスタが苦笑した。
「良い事を教えてあげましょう。この赤い道は目を閉じていても見えるのですよ」
「え? そうなんですか?」
「うん。不思議とね、道だけは見えるんだよ。ね、ルミナス」
「……はい」
 声を掛けられて戸惑った様にルミナスが小さく返事をした。自分の身代わりに主が盲目になってしまった事に非常に負い目を感じて、口数も少なく折角の美貌も曇ったまま。見かねてシリエスタがルミナスを呼び寄せた。
「その様にいつまでも沈んでいてはリュノ様が余計に気を使われますよ」
「わかっているのですが……」
「その目を生かしてお役に立つ事だけを考えればいい。それに……リュノ様も仰られた様に、これからもっと後悔するかもしれない。見たくない物まで見える事を。見えないリュノ様の方が幸せであると……」
「え?」
 シリエスタはそれ以上は語らなかった。まるでこれから起こること全てを知っているかの様な、不思議な言葉を残しただけで。
「何か良からぬ気配がする」
 キーンが立ち止まった。
「獣の臭いがするね」
 リュノもキーンの肩から飛び降りた。元々とても鼻が利いたが、目が見えなくなって一層研ぎ澄まされた様だ。
 樹齢何百年、何千年もの大木の間にちらりちらりと黒い影が過ぎった
「黒牙獣(ニュク)に囲まれています。六匹いますね」
 ルミナスが背負っていた白い大弓を構え、矢を番える。シリエスタにもキーンにもまだ姿までは見えなかったが、この射手には既に数までわかっていた。黒牙獣はそう大きくは無いが、群れで襲ってくる凶暴な肉食獣で毒もある。
「無駄な殺生をしてはいけないよ」
 リュノの声に三人が頷いた。
「頭(かしら)だけを倒せば他は逃げるでしょう」
 額に白い模様のある一匹に狙いを定め、躊躇無くルミナスが矢を放つ。力強く飛んだ矢は、正確に命中し、低い獣の叫び声が森の空気を震わせた。
「すごいじゃないですか」
 シリエスタが感心した様にルミナスの肩に手を置いた。
 頭を失った獣の群れは遠ざかって行った。
「肉は喰えないが黒い毛皮は獲るかい?」
 生死を確めに行ったキーンがシリエスタに声を掛ける。
「そのままにしておきましょう。他の獣の餌になって森に還るでしょう」
 また森を行く一行。先程より僅かにルミナスの表情が晴れた気がして、シリエスタは安堵した。
「私達のような剣使いは近づかないと相手を倒せません。飛び道具は便利ですね」
「……少しはお役に立てそうですか?」
「勿論ですとも。ねぇ、リュノ様?」
 またもキーンに担ぎ上げられているリュノがにっこりと笑った。
「そうだよ。飛び道具というだけでなく、その腕前が素晴らしいんだよ」
 やっとルミナスにも微かな笑みが戻った。
 きぃきぃと遠くで鳥の啼く声が響く。暗い緑の森は何処まで続くやら。もう二日森を歩いているが、今日も日が沈むまでに抜けるのは無理そうだ。夜ともなれば森は更に危険になる。
「そろそろ薪を集めましょう」
「あ、俺とルミナス殿で集めてくる。シリエスタ殿はリュノ様を」
 そう言ってキーンがリュノを降ろしてシリエスタの腕に預けた。いかに小柄だとはいえ、丸太のようなキーンの腕ならともかく、ひょろっと細いシリエスタにまで抱き上げられているのは流石にリュノも気が引けた。
「……降ろして」
「何ですか。キーン殿は良くても私の抱っこではご不満ですか?」
「だって……ちゃんと足があるもの。歩けるから」
 少し恥らった様に顔を背けるリュノが酷くいじらしく見えて、シリエスタはそのまま抱き上げて降ろさなかった。少しの間抵抗していたリュノも諦めた様に身を任せた。
「最近私の仕事が無くなってしまいましたからね。この位させて頂いても良いでしょう? 無用の人間の様で居た堪れません」
「無用だなんて。誰もそんな事思いはしないよ。お前がいないと……」
 何度も首を振って、リュノは今にも泣き出しそうな顔をした。
「……僕はルミナスの目が見える様になったのが嬉しい。自分が何も見えなくなった事に後悔などしていない。でも一つだけ残念な事があるんだよ」
 そういってリュノの白い美しい手がシリエスタの頬を撫でた。いつも飄々としていて何を考えているのかもわからない黒髪の剣士は柄にも無く頬を赤らめた。
「お前の笑顔が見えないのが寂しい」
「リュノ様――――」
 その時、木々の梢が微かに揺らめいた。
 くすくす……大人とも子供とも、男とも女とも一人とも複数ともつかぬ笑い声。
「誰だ?」
 リュノを降ろし、銀の剣に手を掛けたシリエスタの耳に、再び声が響いた。
「みつけた、みぃつけた……」

  幾つの星が流れたか
  昔々の若者と同じ道
  辿るは東の国から来た白き者

 聞いた事も無い旋律にのせ、唄う声が木々の間に不思議に広がる。
「この声は……森の精霊(ニライマルア)ですね?」
 シリエスタが声を掛けると、くすくす……とまた悪戯っ子の様な笑い声が木霊した。四方から湧き出すように響く声はどちらからなのかもわからない。

  赤い道はこの先の、別れの谷で行き止まり
  別れの谷は大事なものを捨てる場所
  別れの谷を過ぎたなら
  玉の川で一人減り、剣の山でまた一人
  辿り着けるはだた一人

 唄う声と笑い声がすうっと遠ざかって行った。
「……今のは?」
「森の精霊達です。彼等は悪戯好きなのですよ」
 リュノはその事よりも言葉の意味を気にしていたのだが。不吉な予言ともとれた。
「お気になさらず。ほら、二人が帰ってきましたよ」
 薪と森のささやかな恵みを両手に抱えて帰って来たキーンとルミナスをシリエスタが手を振って出迎えた。その人懐っこい笑顔はリュノには見えなかった。

 それから木々の間で後二回夜を迎え、ついに一行は深い森を抜けた。
「うわ……」
 キーンが思わず声をあげる。
 ずっと続いて来た赤い道はぷっつりと途切れた。目の前の深い深い谷の手前で。濃い霧がたちこめる向こう側はルミナスの眼でさえもはっきりと見えない。微かに、彼方に聳える尖った山が薄らとわかる程度で。
 ごぉっと巻き上げてくる強い風は、見えぬリュノにも足元に大きな大地の亀裂がある事を感じさせた。
「ここが別れの谷……」
「この向こう側がファイラ・イル。ここまでの俗世と別れを告げるという意味で別れの谷と呼ばれているのです」
 シリエスタの言葉に、先日の森の精霊の唄が思い出され、リュノの胸に暗い影が過ぎった。一人減り、また一人……辿り着けるはただ一人。なんと不吉な事を。
「向こう側は下にも道が見えますが、どうやって降りましょう?」
 ルミナスが覗き込んで確めたが、こちら側は切り立った崖で降りられそうな場所は無い。双首竜を倒した英雄も高い所は苦手らしく、キーンは近寄るのも嫌な様だ。
「翼でも無いと無理ですね」
 あっさり言ったシリエスタの言葉に皆が溜息をついた。
「おいおい、魔法でも無理だろう、それは」
「そうでもありませんよ。リュノ様にお願いが」
 シリエスタが腰の剣を鞘ごとリュノに差し出した。命の様に大事にして、今まで決してリュノにさえも触らせた事の無い銀の柄の剣。
「少し重いですが預かってください」
「何をする気なの?」
「多分この中で私が一番身が軽い。先に降りて翼を連れて参ります」
 言葉の意味はわかりかねたが、この黒髪の青年は何やらこの崖を降りる方法を知っているらしい。
「後、竜馬はここでお別れです。今まで旅を共にしてきた友ですが、荷を降ろして放ってやってください。私が降りる間に皆で準備をしておいてくださいね」
「幾ら身が軽いとはいえ、どうやって降りる?」
「ご心配なく」
 シリエスタが荷の中の縄を持って、何か小さく呟いた。縄は何倍にも伸びて谷の下に長く垂れ下がった。
「魔法が使えたのか」
「こんな簡単なものしか使えませんし、リュノ様にはおよびませんが。これを伝って降ります。キーン殿、何処かに強く結わえてください」
「それは良いが……風も強いし、こんなもので? それに翼とは一体……?」
 シリエスタは答えず、いつもの笑顔を見せただけだった。
「ではキーン殿、ルミナス殿、主をお願いします」
「そんな今生の別れみたいな事を……」
 大きな岩にしっかりと結わえられた縄を確めると、早々にシリエスタが身を翻した。
「シリエスタ、気をつけて!」
 足を滑らせて落ちないよう、ルミナスに肩を抱かれてリュノが声をかけた。その声に応えるよう、にっこりと笑った憎めない顔が見える筈も無い。
「先に行って待っておりますからね」
 その声だけを残し、するすると縄を伝って降りはじめた。確かに自分でも身軽だと言っただけあって、危なげも無い様に見える。
 言われた通り、荷を降ろし轡と鞍を外された竜馬を森の方へ放したが、良く馴れずっと旅を共にしてきた美しい獣はなかなか主の側を離れなかった。
「お行き、今までありがとう」
 別れの谷で竜馬と別れた。大事なものを捨てる場所。精霊もそう唄っていた。
 念のため、綱の端を握っていたキーンが声を上げた。
「急に軽くなったぞ」
「下に着いたのでは?」
 丁度一層強い風が吹き上げた時だったので、落ちたのではと懸念したキーンだったが、リュノのために黙っておいた。
 ルミナスが覗き込んで確めたが、下も見えないほどの谷底には不思議な色の靄がたちこめ、黒髪の姿は見えなかった。代わりに何か大きな物がゆっくりと上がって来るのが見え、慌てて飛びのいた。
「何か来ます!」
 風が一層強まり、リュノ達の髪や衣をはためかせた。その風は谷底から上がってきた大きな翼が起こしているのだと一同が気がついた時には、巨大な黒い影は目の前にいた。皆肌が粟立つほどの魔力を感じた。かなり格の高い魔物であろう。
「これが翼……」
 ルミナスがようようといった風に呟いた。
 竜馬の数頭分もありそうな胴体に、その何倍もある翼。漆黒の羽根に覆われた巨大な鳥。光で様々な色に見える長い嘴は、ここにいる三人など一呑みに出来そうだ。強い魔力を感じるので、魔物である事は間違いない。だが、敵意も感じなければ、空を固めた宝石を嵌め込んだ様な碧い眼は穏やかで、襲い掛かって来る気配も無い。射手も剣士も武器を取る気にもならなかった。
 大きな鳥は崖っぷちに羽根を畳んでとまり、お辞儀をする様に首を下げた。
 リュノが気配のする方へ手を伸ばして嘴を撫でると、くう、と小さく啼いた。
「乗れと言ってるの?」
 鳥は頷いたように思えた。確かに三人が乗っても大丈夫な程の大きさだ。
 ルミナスがリュノを抱えてその首の付け根に乗せた。キーンの大きな体も恐る恐る背に跨る。三人が乗ったのを確めると、大鳥が再び翼を広げた。
『落ちない様にしっかり掴まっておれ。向こう側までは飛べぬ。我の様な魔物は聖域の結界を越えられぬ。下に降ろすだけだが恨むでないぞ』
 これは鳥の言葉なのか。直接頭の中に響いた声は、若い様にも年老いた様にも思える不思議な声。
 巨大な翼が羽ばたき、宙に浮く。ゆっくりと空を弧を描くように谷底へと降りてゆく。ここで落ちれば命は無い。三人は必死で鳥の背にしがみついた。
 切り立った崖の下は、急流の川、ごろごろと大きな石が転がる河原。ふわりと谷底の大きな岩の上に舞い降りると、鳥は首を下げて三人を降ろし、再び羽根を広げてそっけなく飛び立った。
「ありがとう」
 リュノが手を振ったのは見えたろうか。
「シリエスタは?」
 キーンとルミナスが辺りを探したが先に降りた筈の剣士の姿は何処にも無い。無事に降りていても、崖から落ちたのであってもその身はあるはず。だがいない。
「待ってるって……先に行って待ってるって言ったのに」
 崖の近くに大きな洞窟がある。先程の鳥の巣なのだろうか。入ることは躊躇われたが、キーンがその入り口である物を見つけた。
「これは!」
 それはシリエスタが身につけていた衣と靴だった。
「まさかあの鳥に喰われたのでは……」
「そんな事言わないで!」
 考えたくも無かったが、先程の鳥は魔物。魔物を従えるには相応の対価が必用な事はリュノも知っている。そして魔物が何を一番欲しがるかも。
「シリエスタ――――――――っ!」
 深い谷間にリュノの声が木霊した。
 銀の柄の剣を抱きしめて、リュノは暫くの間見えぬ空を仰いでいた。光を失った紫の瞳からはいつまでもいつまでも涙が流れ続けた。

 赤い道が終わり、ここは別れの谷。大事な者との別れの谷。

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まいるどタブレット小説 Ver1.13