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射手の瞳

2014/10/14 19:31

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 西へ、西へ。聖域への赤い道はまだ続く。
 港町を出てしばらくは海沿いに進み、いつしか道は緑の草原の中。草の緑に対照的に日の光を受けて赤く輝く鱗は、宝石の様に美しい。
「いつも思っていたのだけれど、この道に敷かれている赤毒竜(ラカマカ)の鱗の数は相当のものだよね。これだけの竜を誰が倒したのだろう? 何だか可哀想」
 珍しく竜馬から降り、自分の足で歩きながらリュノが言った。
「ご安心なさい。殺したわけではありませんよ。赤毒竜は数は多いですが滅多に人を襲わぬ大人しい生き物です。年に二度鱗が生え変わるので、北の谷に積もるほど落ちています。それを拾い集めて道に敷き詰めたのですよ」
 シリエスタが笑いながら答える。
「お優しいのですね、リュノ様は。竜の心配までなさるとは」
 港町からついて来たキーンが目を細めた。見るからに力のある彼は今では立派な荷物持ちだ。いざとなれば双首竜を倒せる程の剣の腕前で、リュノを守ってくれるだろう。
「穏やかなのはこの辺りだけですよ。この先深い森や谷が続きます。凶暴な魔物も獣も沢山いますからね」
「シリエスタは本当に物知りだな。まるで道を一度でも全て歩いたみたい」
「しょ、書物で読んだのですよ」
 少し呆れてリュノが言った言葉に、慌てた様にシリエスタが強張った笑いを浮かべた。不思議な男だ……穏やかで掴みどころの無い飄々とした風情だが、若いわりに老成した感のある青い瞳は何かを隠している様な。キーンは少し訝しく思っていた。
 しばらくして泉の傍で三人が一休みしていると、遠く道を誰かが歩いて来るのが見えた。頭からすっぱりと布を被り、杖を付き、道を探るように歩く様は遠目には老人に見えた。ふらふらした足取りは今にも倒れそうだ。大きな荷物を背負っているのを見ると、これも旅人なのか。
「とても疲れている様だね、気の毒に」
 リュノが立ち上がりかけたのを止めたのはシリエスタだった。
「人それぞれの事情もあれば、思う処もあるのです。闇雲に手を差し伸べるだけが親切ではありません。気の毒に思うのは懸命に進む者に失礼に当る事もあるのですよ」
「……わかっているけど」
 シリエスタが意地悪で言ったのでは無い事は、若いリュノにも理解できた。だが目の前に倒れそうな人がいるのを放っておける程、まだ悟りきれずにいた。
 人影は段々と近づき、泉の水の音を聞きつけたのか縺れる足取りが僅かに早まった。
「水……」
 手で空を探る仕草が、この旅人の目が不自由であると物語っていた。
「泉はこちらですよ」
 偉そうに言っていたわりに真っ先に声を掛けてるじゃないか、そうシリエスタに言ってやりたいリュノだったが、近づいてきた旅人の頭から被った衣から僅かに覗く口元が思っていたよりも若い事に気付いて驚いた。しかも何となく見覚えがあるような。
「これは忝い」
 声も聞き覚えがある。
 キーンが既に気を利かせて器に水を汲んでいた。
「これを」
 手渡された器を危なっかしく受け取り、旅人は一息に飲み干すと、やっと人心地がついたのか大きく息を吐いた。
「余程喉が渇いておいでだったのですね」
「ご親切に感謝いたします。生き返った心地です」
 そう言って頭を何度も下げた男の衣が少し後ろに下がり、顔が半分以上見えた時、リュノが声を上げた。
「……ルミナスなの?」
「は? その声はもしや……」
 目を閉じたままの顔が声の方を向いた。老人などでは無く、日焼けし、髭も伸び、あちこち煤けてはいるが端正な造りの青年の顔。手入れもされずに伸び放題の髪はリュノと同じ銀色だ。
「リュノだよ! ああ、ルミナス! 生きていたのだね」
「おお……これはライマルキアのお導きか……リュノ様にお会い出来るとは!」
 涙を浮かべて抱き合う二人を、シリエスタとキーンが不思議そうに見ていた。
「お知り合いですか?」
「トクヴァンの城の近衛隊長だったルミナス・クリエだ。子供の頃からとても世話になった。まさかこんなところで生きて再び会えるとは」
 遠く後にしてきた故郷の知己であれば、再会を喜ばぬ訳も無い。この様な困難な旅の途中とあらば尚更だ。横で見ていたキーンが目頭を押さえた。どうも彼は涙腺が緩いようだ。
「リュノ様もご無事で何よりでございます」
 リュノの姿をよく確めようと手が空を探る。その手を動く方の手で捕らえると、リュノは自分の顔に持って行った。
「ルミナス、お前、目が……」
「はい、情けない事に今は盲(めしい)でございます」
 哀しげに口元に笑みを浮かべたルミナスの目は閉じられたまま。トクヴァン一の弓の名手、そして遥か遠くの標的までも見通す、新緑の若葉を思わせる美しい緑の瞳がリュノは大好きだったのに。リュノの紫の瞳から涙が溢れた。滑らかな頬に当てられたルミナスの手にそれは流れ、温かい感触を伝えた。
「リュノ様、泣いておられるのですか? 勿体無い、私などのために……」
「だって……あれほど良い眼であったのに……」
 遠くの山に最初に季節を告げる花を見つけるのも、草原の彼方にただ一匹いる獣を見つけるのも、普通のものには針の先程にしか見えぬ的に正確に弓を射られるのも彼だけだった。また弓の腕も然る事ながら、肌が白く金か銀の髪の美しいトクヴァンの民の中でも秀でて麗しい容姿を持った青年だった。そのような恵まれた資質を持っていながら驕る事無く、控えめで優しいルミナスは皆に愛される存在だった。リュノも兄の様に慕い、いつも後ろを追いかけていたのに。今は盲目でこの様にボロボロになって見る影も無いとは。悲しくてリュノは涙を堪えられなかった。
 草の上に倒れ込む様にルミナスは膝をついた。疲労が溜まっているのは見るだけでもわかる。きっと懐かしい声を聞き、案じていた身の安全を確めた事で気力だけで持っていたものが緩んだのであろう。砂漠の真ん中で馬に振り落とされ、獣に襲われながらもずっと歩いて来たのだ。意識も朦朧としている様子。
「ルミナス!」
「……すみません……大丈夫です……」
「リュノ様、ルミナス殿はお疲れの様です。募る話もございましょうが、少し休ませて差し上げましょう。よく見るとあちこち傷だらけです。私がお世話をいたしますゆえ、キーン殿と薬草を採って来ていただけませんか?」
 シリエスタが優しく微笑んだ。

「このちょっと赤い葉がハノゥ、傷薬だよ。こっちの綺麗な黄緑色のはトクトク。水に浸して湿布にするの」
 リュノが草叢から薬になる葉を探し出しては摘むが、片手ではどうも上手くいかない。それを見てキーンは責任を感じたが、口に出すと余計に主に気兼ねさせてしまう。黙って代わりに無骨な手で籠に摘んでいった。
「お詳しいのですね」
「小さい頃から教わっていたからね。シリエスタはもっとよく知っているよ」
「シリエスタ殿はどういった方なのでしょう? 剣も私も敵わないほどの腕前なのに、知識も博士のように豊富でいらっしゃる。まだ若いのに」
「そうだね、考えてみれば不思議な男だね。トクヴァンを出てすぐから気がつけばずっと傍にいるけど、未だによく知らない。でも悪い人間では無いのはわかる」
 そんな素性も知らないような者と一緒に旅をして来たとは、このお方もよくよく鷹揚でいらっしゃる……ちょっと呆れて苦笑いしたキーンだったが、彼とてついこの前お供をする身になったばかり。事細かに身の上話を聞くでも無く、それでも昔からずっと傍に居るかのように接してくれるのが嬉しかった。きっとシリエスタも同じなのだろう、そう納得する事にしておいた。第一、あの黒髪の青年の何ともいえない人懐っこい笑顔は同じ年頃のキーンですら何かしら気が許せてしまう。仔犬の様について来られたら自分も拒絶はしないだろう。旅を共にする者は相手を詮索してはやっていけないのかもしれない。
「さ、この位でいいだろう。キーン、戻ろう」
「そうですね」

 一方、シリエスタとルミナスの間でも内緒の話があった。
「……この事はご内密に。リュノ様のお覚悟を挫いては気の毒ですので」
 泉の側でシリエスタに介抱されて少し元気を取り戻したルミナスが頭を下げた。
「そうですね。今まで通り接して差し上げるのがよいでしょう。ルミナス殿、よく話してくれました。これまで闇の王子に関しては、不思議に思っていたのですが、これで納得が行きました」
「本来なら私が国からご一緒しないといけなかったのですが……よい方々とご縁があられた様で本当に安心しました」
「まだ先は長いです。安心するのは早いですよ。それに……」
 シリエスタが何か言いかけた時、リュノとキーンが戻って来た。
 ほんの少し時間があっただけなのに、身なりを整えてもらい、泉で身を清めたルミナスはリュノの記憶の中にある美しい青年の姿に戻っていた。
「主をお使い立てして申し訳ございませんでした。沢山薬草が採れましたね」
 いつもの笑顔でシリエスタが微笑んでいるが、傷だらけだったルミナスの手足もすっかり手当てしてあるのを見て、リュノは少し頬を膨らませた。
「薬草なんていらなかったじゃない」
「そんな事はありませんよ。まだ荷の中にあったのを使っただけです。今採って来て頂いたものは後日に取り置きしておきましょうね」
 何とも上手にかわすな、とキーンもルミナスも苦笑いだ。
 まだ日が高いうちに先を目指す予定であったが、今日はこの泉の近くで過ごす事になった。
 落ち着いた所で、ルミナスに何があったのかをリュノが問うた。
「リュノ様が旅立たれてすぐ、私も早馬で追ったのですが、すぐに妖しい者に襲われまして、この様な有様に」
 もしや……そう思ったのはリュノだけでは無かった。
「キーン殿の腕と同じでは?」
 シリエスタが先に言った。キーンも後に続く。
「最後に見たのは女では無かったか? 黒髪の黒衣の女」
「どうしてそれを?」
「やはり。他に探してもいないほど良い眼だもの。闇の王子に見込まれたのだね」
 また一人、最高の物を持っていかれた者を見つけた。
 しばらく考えこんだ後、リュノが口を開いた。
「シリエスタ、キーン、二人にお願いがある。このルミナスも一緒に来てもらってもよいだろうか?」
 訊かれた二人は顔を合わせた。勿論、忠誠を誓った主の願いとあれば拒否する事は無いが、何か良からぬ予感があったのだ。
「それは構いませんが、まさかリュノ様、また……」
「そのまさかだよ。駄目かな?」
「駄目に決まっているでしょう! どうしてあなたはそう無茶な事ばかり」
 声を荒げたシリエスタをキーンが諌めたが、彼とて内心穏やかで無かった。自分は腕だった。これだけでも充分不自由になってしまったというのにその上――――。
「何のお話でしょう? 以前の私ならともかく、弓も使えぬ私がご一緒しても足手纏いになるだけ。リュノ様にお会いできただけで私はもう思い残す事はございません。どうぞここに捨て置いて、先をお急ぎ下さい」
 ルミナスが深く深く頭を下げた。リュノはその手を取り、頭を上げさせて微笑んだ。
「その遥か遠くまで見通す目を役立てておくれ。弓の腕を役立てておくれ。この先、見たくない物も沢山あるだろう。僕の代わりにそれらを見せる事になるけれど、恨みたくなるかもしれないけれど、それでも良いなら一緒に来ておくれ」
 シリエスタとキーンが止める間も無く、リュノはルミナスの眉間にくちづけした。止めた所で聞きはしなかっただろうが。
「ああ……」
 二人の従者の絶望の声と共に、ルミナスの額に微かな輝きと鳥の姿が浮かんだ。
「ルミナス、目を開けてみて」
 何が起こったのかさっぱりわからぬまま、ルミナスが恐る恐る目を開けた。闇に閉されていたその視界に光が差し込んで来て、ぼんやりと形を結び始めた。銀の髪、白い肌、ほっそりした儚げな姿。故郷を発って以来、夢にまで見続けた姿。
「リュノ様! おお、リュノ様のお姿が見えます!」
「良かったね、ルミナス」
 微笑んだリュノのファムの花の様な目は閉されていた。
「あの……?」
 何か重い空気を感じて、ルミナスが初めてその姿を見た二人の剣士に目を移すと、二人は何も言わず悲しげな顔で小さく首を振った。
 しばらくの沈黙の後、全てを理解できた時、ルミナスの新緑色の瞳から大粒の涙がはたはたと落ちた。
「何という事を……! 私は……ああ!!」
 日の傾きかけた草原に長く嗚咽が響いていた。

 聖域への赤い道はまだ続く。西へ

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まいるどタブレット小説 Ver1.13