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大九龍編 - 5:天の声とカエル娘ともう一人

2015/02/10 12:53

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 おい、夕方じゃなかったのか? ずっと暗いからイマイチ時間の感覚が無いが、まだ午後二時すぎってところなはず。
 こっちでは夜龍が立っていられなくなったのか、腕にしがみついて来た。相当辛くなって来たみたいだ。きっと狙われてる事から張り詰めていた緊張が緩んだからだろうが、まださっきの今だから一人放っておくわけにもいかない。
 きょろきょろと辺りを確認しながらゆっくりゆっくりとこちらに来る娘。薄暗がりに二日もいたら慣れてきたのか、いくら暗い所でそう利かない目だとは言っても、ノーマルの数倍は視力のある目には離れていてもその顔が僅かに見えた。
 間違いない、あの写真の娘だ。
 とりあえず夜龍を連れて建物の陰に身を隠す。すれ違うのもやっとの通り、ここで肩でも当たって死ぬのは一番洒落にならない。一応布は被ってるから、滅多な事は無いだろうが、もし本物のカエルと同じで毒を常に分泌しているならまだ特殊スーツを受け取っていない今、布越しでも圧力がかかると染みだして危険だ。音から察するにそう分厚い布でもなさそうだし。
 そこでふと気がついた事があった。依頼人は同じ香港に住んではいるが、湾を挟んで向こう側の香港島の方に住んでいる。地震にも耐えた海底トンネルで結ばれてはいるが、徒歩で来るには結構な距離だ。それに人も多い中、外で事件を起こさずによくここまで来たものだ。
 ひょっとして誰かにここまで連れて来てもらったのだろうか。そうだ、そもそもどうやって逃げ出したのか。誰か協力者がいないと無理だろう。
 ここまで危険なA・Hを入手した経路、自宅でどうやって安全管理をしていたのか……一応問うてはみたが知る必要は無いと一蹴されたしな。
「くっ」
 マズイな、今はそんなことを考えてる場合じゃない。夜龍がガタガタ震えだしたし、息も荒い。しがみついてる手にすごく力が入っていて爪が食い込んで痛い。余程苦しいんだろう。頼む、今気を失わないでくれよ。
「薬、持って来てるか?」
「う……ん……」
「今飲めるか?」
 まあ飲んですぐに効くってもんでもないが、変な話人の脳ってのはこれは効くと信じてたらただの小麦粉でだって即症状が緩和する。
「苦い……から……水、無いと、ム……リ」
 まあ漢方薬だし作ってるところ見てるだけで苦そうだったけど。だが今そんな事言ってる場合じゃないと思うぞ? ってか薬と一緒に水も持って歩けよ。抜け目がない奴だと思ってたが、結構肝心なところが抜けてるじゃないか。だから我慢せず早めに飲んでりゃ良かったのに。
 ああ、あの娘がもうすぐ来る――――。
「どうしたね?」
 声が掛かって思わず飛び上がった。
 身を隠していたのは郵便受けがとんでもない数並んでるところから集合住宅っぽい建物の入口だったが、後ろからいきなり声が掛かったのだ。聴覚はカエル娘の動向の方に、他の意識は夜龍の方に回していたのですぐ後ろに人が来ていることに気が付かなかった。
 第一、このクーロンで人から声を掛けられるなどと思ってもみなかったので、恐る恐る振り返ると、切れかけた暗い蛍光灯の照らす階段の下に男女二人が立っていた。一人はどこかで見たことがある気がする。
 女の方は若くて美人、もう一人はやや歳をくった中年の男だが、まん丸の体型にまん丸の顔。掛けている眼鏡もまん丸。何とも言えず愛嬌のある見た目の人物。この建物の住人だろうか。
「ちょっと連れが体調を崩して、こちらの軒先を借りてました」
「それは大変だね。おや?」
 まん丸の眼鏡の奥の細い目が丸くなった。
「君は……」
 夜龍の事を知ってるのか? まあこの街の有名人と言えなくも無いが。
 それよりこの男の方、どこで見たんだろう。自分で言うのも何だが一度でも見たことのある人間、声を聞いた者は覚えている。
 そうだ、思い出した。この人は今朝見たんだ。黄薬舗にいた先客。出て行く時にちらっとみた顔。話の内容から劇場か何かの支配人っぽい感じだった。親父さんとえらく親しげに話してたよな。これってすごい偶然じゃないか!
「ええと、失礼ですけど貴方今朝、南端小路の薬屋にいた方ですよね?」
「そうだが、何故……ああ、そういえば入れ違いに来たお客さんがいたな」
 やはり。おお、神様って本当にいるんだな。声を掛けられて驚いたが天の声だったのか。
「私です。いきなりで悪いのですが、数分でいいのでここでこいつを見ててくれませんか。もし水があれば薬を飲ませてやって欲しい。偶然にもこいつはあの薬屋の息子です」
「ザック!」
 ぜえぜえ言いながらも怖い顔で夜龍が袖を引っ張った。バラされたのが嫌で怒ってるのだろうが、構うもんか。
「やっぱりそうか。急ぎでも無いし、全く知らないわけじゃないからそれは構わんが、君はどうするんだ?」
「ちょっと野暮用でしてね。ああそれより今路地に出ない方がいいですよ。例の触ると死ぬ毒の娘がすぐそこにいます」
「なんと! 良かった、踊り子が心配で迎えに来たんだが。これも何かのお導きかな。リナ、水を持って来てあげなさい」
「はい」
 美人さんは階段を軽い足取りで駆け上がっていった。へえ、リナちゃんっていうんだな。踊り子さんか、道理でスタイルいいと思った。
 ともかく都合よく任せられる人も出来て心配がひとつ減ったことだし、このクーロンに来た本題に移らないとな。あんまり乗り気じゃないが、金をもらってしまった以上、仕事はやり遂げたい主義だ。
「じゃあ、お願いします。私は行きます」
「今、外が危険だと言っていたのでは?」
「その危険の元を捕まえるのが仕事でね。夜龍、薬飲んで大人しくしてろよ」
「ザック……無理、するな……」
「その言葉、まんま返しておくぞ」

 路地に出ると娘の姿はもうなかった。行き過ぎたようだが気配はまだ残っている気がする。近いはず。
 目を閉じて両耳の横に手をかざして耳を澄ます。
 一人一人違う鼓動の周期、息遣いの特徴、着衣の衣擦れの音、髪が起こす摩擦音、それぞれの歩幅の足音。色々な要素が重なりあって個人を特定する音になる。娘の「音」は先程しっかり記憶した。
 ドブネズミが歩く音、用途はわからない配管から聞こえる音、微かな機械音、水の滴る音。建物の中から聞こえる足音、遠い言い争いの声、歪んだ音楽。とんとんという音は包丁が何かを刻む音。風が建物を軋ませる音、そして自分の鼓動。色んな音が作り出す人工の森の中、意識は一人の「音」を探す。
 ……いた。十メートルも離れていない。あれ、だが例の服屋の方に向かってたんじゃないのか? ちょっと向きが違う。あの店があった雑居ビルの二軒手前の建物に入ろうとしている? 全神経を集中していた耳には、入り口のドアを開けるぎいいぃという重い音が妙に大きく不快に届いた。
 足音と気配を殺して近づく。捕捉したターゲットの音を逃さないように。
 目を開けると今度は姿を捉えた。音から脳内でマッピングした通り、服の店とは違う建物の前でドアをくぐる前に立ち止まってキョロキョロと辺りを確かめた後、中に吸い込まれた小さな人影。 
 閉まったドアに手を掛けようとして躊躇した。さっき思いきり大きな音がしたな、このドア。気づかれるかな。
「誰にも触れなかっただろうね?」
「ええ、今度は誰にも出会わなかった。夜のほうが人が多いから早く来たの」
 中から声が聞こえる。高めの女の子の声はターゲットの声だろうが、もう一人いるな。若い男の声?
「今日の夕方、服が出来るの。すぐ近くの店。もう人の命を奪わなくて済む。普通に買い物にだって行けるわ」
「それは嬉しいね。ごめんよクレア、君に嫌な思いばかりさせて」
「ううん、あなたを守るためだもの。言ったでしょ、あの水槽を壊してくれて、それだけであなたは私の恩人」
 クレアちゃんというのか、カエル娘は。可愛い名前じゃないか。
 ……うーん、恋人同士のような甘い口調で会話が交わされているが、内容は殺伐としている。それになんか色々と想像と違うような気がしてきたぞ。
 やはり一人では無かったというのは想定内だ。だが守る? 反対だったらまあ納得はいくんだが、娘のほうが?
 考えてても仕方が無いので、思い切ってドアを開けた。
 ぎいいいぃ。うわ、思いっきり錆びてるな。
「誰?」
 案の定、入り口近くにいた娘を驚かせてしまった。
 思ったより明るかった中に少し目が眩んだが、布から顔を出した娘と、もう一人。
 一人……と言って良いのかな? いいんだろうな喋ってたし。
「あー、何でも屋のシモンズと言う者です。チャンさんに依頼されて」
 一応名乗っとかないといけないかと思い、正直に答える。
「……あなたもリンを狙ってきた殺し屋?」
 手を広げてもう一人を庇うように立ちはだかった娘。その後ろで、怯えたような目で若い男がこちらを伺っている。うん、若い男……でいいんだよな? 
 奇怪な人物がそこにいた。顔は若い男だが、体が、なんというか……機械? それも一応人の形はしているものの、作りかけみたいな内部構造丸見えの、部品集めました的なものすごく無骨な。
 ええと……娘はクレア、って事はその後ろにいるのがそのリンとやらでいいんだろうか。待て待て、なんか頭が混乱してきたんだが。
「いや、あの、殺し屋じゃなく何でも屋。私が依頼されたのはクレアさん? あなたを探せとだけで、もうお一人のことは聞いてもいませんでしたが」
 本当に今の今まで知らなかったわけだし。ほら、この顔を見ろ。嘘なんかついてないし。丸腰だぞと手を広げて見せてみる。
 顔を見合わせた二人。信じてもらえたのだろうか。
「……ひょっとしたら、チャンが新しい手に出たのかもしれない。僕を探すより、クレアを探したほうが早いから」
 なーんとなく事情がつかめてきた気がする。気がするだけだが。
 これはこの二人とゆっくり話し合う必要があるな。話をさせてくれたらだが。

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