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2014/11/27 14:36

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 もう何年前になるのだろうか。
 夜が来ると、海を見ると、今でも頭の中に流れるのはあの夜更けに彼が弾いてくれた曲。ショパンのノクターン第二番。長い間調律もされてなかった破鐘のような響きの、そして一つ音のならない鍵盤もあった古いピアノだったから少し微妙ではあったのだけれど、今まで聴いたどの演奏よりも心に残ってる。歪んだ音は古びたオルゴールのようにも聞こえた。
 今、あの時と同じ場所に来た。
 もう彼はいないのに。もう絶対に逢えないとわかっているのに。
 二度とあの曲を僕のためだけに弾く事は無いとわかっているのに。ほんの一夜通り過ぎただけの短い時間は時が経つほどに美しく昇華してゆく。
 まもなく闇が訪れる、夕日が琥珀色に染める海の側、波の音に混じって壊れたピアノが奏でる曲が聞こえる気がする。
 忙しげに行き過ぎる車以外は、歩く人の気配もない海沿いの国道。少し先の海沿いに見えるのは、近くに炭鉱があったという寂れきった小さな町。昔は少しは賑やかだっただろう商店街はもはや商売をする店もほとんど無く、家はそこそこの数建っているが住んでいる人もそういない。あの時ももう既に学校は廃校になり、お年寄りだけが目立つ静かさだった。観光地があるわけでもなく、一日にバスが二往復しか停まらない、近い都市部に車で一時間以上かかるような田舎から若者たちが去っていったあと。特に夏も終わったこれからの時期は死んだように静かになるのだろう。ひっそりと緩やかな滅びを待つ、時間に取り残されたような場所。
 まるで今の僕のよう。だからここに来たかったのかもしれない。
 あの日のように、バスも無くなった夕方の国道をとぼとぼ歩いていても、一台の車も止まってはくれなかった。勿論彼のトラックが停まるはずも無く、疼痛を抑える薬だけで何とか持っている体で、僕は最後まで歩き続けた。
まず最初に行きたかった居酒屋はもう無かったが、あの夜を一緒に過ごした宿は奇跡的にまだ営業していた。
「他にお客さんもいないからゆっくりしてください」
 年老いた夫婦がやっている旅館とも言えぬ民宿。夏場海に遊びに来た客以外年に何人も泊まる客はいないそうで、多分跡継ぎも見込めないだろうから自分達が動け無くなったら閉めるだろう、ひょっとしたら僕が最後の客になるかもとおばあさんは笑った。
 海の見える和室、あの時もこの部屋だった。
 もう何年も経つのに、あの時のまま。カーテンの柄一つも、家具の位置も変わっていない気がする。窓から見える海も、月も。
 ただひとつ違うのはここに彼がいないこと。二人で泊まった時は狭く感じた部屋は、一人きりだと酷くだだっ広く思えた。


 僕は死に場所を探していた。
 元々そう賢い方じゃないし、家は特別裕福でもなかった。それでも両親は上昇志向の強い人間だった。小学生の頃から人の何倍も、それこそ遊ぶ間もないほど勉強させられて、僕を有名私立中学、高校に進学させてくれた。僕は本当は全く望んではいなかったけれど、借金をしてまで一人息子の僕に賭けた両親の事を考えると従うしか無く、その後も必死になって一流大学を出、有名企業に入社できた。
 仕事の成績も悪くなかった。すぐに上司にも気に入ってもらえて表向きは順風満帆だった。嫌なこともあったけれど、仕事自体はやりがいがあったし頑張ってきたのは無駄にしない、そんなつもりでいたのに。
 系列の会社の不祥事が明らかになり、マスコミに騒がれるようになったのは入社してまだ二年目の事だった。業種は全く違うウチの社も同じ名を冠しているがゆえ世間の風当たりも強くなって行き、給与や賞与が減らされると社内がピリピリしてきた。これも自分で望んだことではないし、どちらかと言えば悩みの種でしか無かったのだが、上司に気に入られていた僕は他の社員にとって面白くない存在だったようだ。日々嫌がらせを受け、過度の残業を強いられるだけにとどまらず、他の業務上の失敗の責任を着せられた時、ついに精神的に参ってしまい、三年目に泣く泣く退社した。
 会社を辞めても、今度は僕に全てを賭した親や親戚からの冷たい目に耐えられなかった。二十代も半ばなのに自分の存在意義も見いだせず、死にたくて死にたくて、それでも死ねない自分に更に嫌気が差して……僕はマンションも解約し、旅に出た。
 ほんの僅かなお金と、小さなリュックに詰めた二・三日分の着替え、病院で処方された精神安定剤と、電源を切ったままの携帯電話。それが僕の持ち物の全て。誰にも迷惑をかけず、ひっそり一人で死ねる場所を探して。
 向こうに見える断崖、あそこから飛び降りたらいいかななんて考えながら、車も疎らな夕方の海沿いの国道を歩いていると、一台の大きなトラックが僕の横で止まった。
「よお、兄ちゃんどこまで行くんだ? 乗っていくか?」
 運転手が窓を開けて上半身を覗かせた。日焼けした肌と逞しい腕、パーマかくせ毛の短い髪にヒゲなのかもみあげなのかもわからない毛が顎近くまで覆ってる。第一印象は熊みたいな人だと思った。でもわりと若い。僕より少し年上か三十代前半という感じ。だが目元が何ともいえず優しげ。
「どこ……ってわけでは。とりあえず泊まれる近くの町に」
「まあいいや、乗んな。もうすぐ暗くなるし、この辺りは皆飛ばしてるからふらふら歩いてたら危ないぞ」
 轢いてくれるならそれはそれで有難いのだが、加害者になってしまう人に申し訳ない。僕は死にたいけど誰にも迷惑はかけたくないのだから。
 雑然としたトラックの助手席に乗せてもらうとすぐに車が動き出した。
 業務用の無線かな? そこに名前が書いてあった。
「日野達也(ひのたつや)さん?」
「おう。俺の名前な。お前は?」
「結城明久(ゆうきあきひさ)……」
「カッコイイ名前だな。インテリの兄ちゃんっぽいが、なんでまたこんな田舎道を一人で歩いてたんだ? バスももうねえだろこんな時間」
「……なんとなく」
 人の良さそうな運転手だが、結構おしゃべりだな。それに……死にに来たなんて言えないじゃないか。
 トラックは小さな寂れきった海沿いの町で止まった。
「腹減ってないか?」
「いえ……」
 ここ最近薬で荒れた胃は空腹を訴えることもない。だがそういえば昨日の夜にゼリーの栄養飲料を飲んだっきりだ。
「まあ奢ってやるから付き合えよ。俺も一人じゃ寂しいしさ」
 別に奢ってもらわなくてもいいんだけど……。
 一緒に入ったのは古びた居酒屋。彼はこの店には何度も来ているみたいで、入るなり適当に注文して、小さな座敷に陣取った。他のお客さんはほとんど居ない。
 目の前にそんなに詳しくない僕が見ても新鮮とわかる刺し身がどんと盛られた皿が運ばれてきた。どれも艶々してる。
「生が駄目ならもうすぐ焼いたのも来る。そんな倒れそうな青白い顔してないで腹いっぱい食え」
 おせっかいというか……僕はそんなにみすぼらしい見た目なのだろうか。
 食欲が無いと思っていたけど、今焼いてるという魚の香ばしい匂いが漂ってきた時、お腹がぐぅと鳴った。
 ははは、と豪快に笑われて悔しいので刺し身を一口食べた。
「……美味しい!」
「だろ? こんな所だけど、魚はホントに新鮮で美味い。最初にここで食ってから他所で刺し身を食えなくなった」
 本当に美味しい。今までどちらかと言うと生の魚は苦手だったがこんなに美味しいなんて。口にいれた時に甘い油の味と共に溶けていくようだった。全然生臭くもない。嬉しくなってパクパク食べてしまった。
「魚を褒めてくれるのはありがたいが、こんな所って。炭鉱が閉鎖される前と、上に高速が通るまでは賑やかだったんだよ、この町も」
 店の壮年のおじさんが焼けた魚を持ってきて苦笑いしていた。
「さっきまで生きてた魚だからな。美味いだろ? この運ちゃんはたまに寄ってくれるが、こっちの別嬪さんは初めてだね。美味いかい?」
 別嬪さんって……それは女の人に言う事だよ。僕もそんなに女っぽいわけじゃないけど、まあ目の前にゴツイ日焼けした人がいればか弱く見えても仕方ないか。
「いっぱい食べなよ。後でアラで取った出汁で雑炊も出してあげるから」 
 なんだかご機嫌のお店の人の横で、達也さんだけは少しがっかりしたようにジョッキをあおっていた。
「あー、やっぱりノンアルコールじゃなく、日本酒が飲みたいな」
 そうだよね。こんなに美味しい魚があったら日本酒が欲しいだろう。運転手さんも大変なんだな。
「駐車場、明日まで停めてても構わないよ。飲んでいきな、いい酒入ったよ」
 お店の人の言葉に、彼は日本酒を頼んだ。僕にも盃を渡してから、ふと手を止めた。
「……えーと、まさか未成年って事はないよな?」
「もうすぐ二十六です」
「若く見えるな。俺と二つしか変わらないように見えない」
 僕が未成年に見えたというのも問題だが、この人、思ったより若かった。
「ま、飲め」
「ありがとうございます」
 車に載せてもらったし、僕が払って本当に奢ってもらおうなんて思っていなかったので、遠慮無くいただいた。
 店の人が出してくれた雑炊まで綺麗にたいらげて、久々にお腹が一杯になった。これが最後の晩餐だったらいいな、そんな事を考えながら、お金を払おうとすると、既に達也さんが払った後だった。
「悪いです、トラックに乗せてもらっただけでも悪いのに……」
「まあ細かいことは気にすんな」
 細かい事じゃないとは思うのだけど……結局ご好意に甘えることにした。
「珍しく荷台は空の帰りだし、明日は休み扱いだ。酔っちゃいないが飲んじまったし、運転出来ねえから今日はここで泊まってく。なに、ちっこい町だが宿くらいあるだろうさ。無かったら車で泊めてやるよ」
 トラックは大きいけど運転席は狭い。泊めてやると言われても二人もどうやって寝るんだろうか……。
 居酒屋から少し行ったところに小さな民宿があった。飛び込みでも大丈夫かと聞くと、素泊まりなら問題無いということで宿は確保できた。
 でもなぜか僕達二人で一つの部屋だった。他に客も居無さそうだし別の部屋をとるくらいのお金は持ってるんだけど。まあ男同士だしいいかと諦めることにした。さっき奢ってもらったから、宿代は僕が先に払っておいた。
 達也さんに先にお風呂に入ってもらい、部屋に戻ってきたのを待って次に僕が入った。手首に残る何本ものリストカットの痕。背中にタバコを押し付けられた痕。この体を見られるのが嫌だったから。
 宿が用意してくれた浴衣に着替え、部屋に戻ると所在なさげに携帯を弄ってた彼が、僕をしばらく見て後ろから抱きついてきた。
「ちょっと……! あのっ!?」
「しーっ。宿の人に聞こえる」
 そんな事を言われても!
「最初見た時は冴えねぇなぁと思ってたが、風呂あがりの浴衣に着替えた途端なんて色気だ。どうせすることもなくて退屈だし、ちょっとやろうや」
「……やろうって?」
「ガキじゃねえんだし、いい大人が二人いたらすることわかってるだろ? 俺さぁ、ここんとこ忙しかったから抜いてねぇんだわ。溜まってんだ」
 明け透け過ぎて物が言えなかった。でも飲み屋でもこんな会話は聞くし、普通ってこんなものなのかなと思わなくもない。但し、僕が女だったら。
「ぼ、僕は男ですよ?」
「かまやしねぇ。俺、どっちでもいける」
「……」
 僕はかまいたいのだが……男女がどうとかでなく、数時間前に会ったばかりの人とセックスするということに関して。
 だけどそうだ……僕は死にたいんじゃなかっただろうか。だったらそんな常識になど囚われる必要があるのだろうか? 行きずりに体を重ねることになにか問題があるだろうか。
「……いいですよ。いっそ滅茶苦茶にしてくれても」
「バーカ。優しくしてやるよ。自分で言うのも何だが上手いぜ、俺。ちゃんとゴムもつけてやっからさ」
 ごそごそと自分の小さなバッグを探って、彼は幾つものゴムを出した。呆れた、こんなに持って歩いてるんだ。
 さっき着たばかりの浴衣の胸を開けられ、びくりと身が竦んだ。
「細いし白いな。力仕事なんかしたこと無いって体だ」
 勉強三昧の後デスクワークばかりやってきたから陽に当たる事も少なかったし。そんなに顔も悪くない方だと思うのだが、女性にモテなかったのはそのせいかとも思う。
「あの、灯りは消してください」
 言葉通り灯りを消して帰ってきた彼は、僕を壁際に座らせて愛撫を始めた。
「あ……」
 声が出そうになって慌てて口を抑えた。開(はだ)けた胸に当たる無精髭の感触、温かい唇の感触に確実に体の芯が熱く昂っていく。
「男、初めてじゃないだろ? 随分慣れてる」
「……わかりますか?」
 男に抱かれるのは初めてじゃない。それどころか嫌になるくらいに何度も抱かれてる。だからこそ怖かった。常務に初めて飲み会のあと無理矢理された時は血も出たし、痛みと吐き気で翌日は仕事にもならなかった。その後も事あるごとに誘われ、逃げたかったけど仕事の立場上逃げられずにズルズルと一年以上付き合わされた。かなり酷い扱いだった。他にも違う会社の社長の寝室に送り込まれたこともある。背中に残る火傷の痕はベッドで事の後タバコを押し付けられたから。心筋梗塞で常務が急死した時、やっと開放されたと泣いて喜んだが、僕は社内での後ろ盾を失ったのだ。おかげでここ何年かは自分でも不全でないかと疑うくらいに性欲もないし、自分で処理しようとも思わなかった。勿論女性関係も無いまま来てる。
 なのになぜ、今日はじめて会った素性もよく知らぬ男に触れられて感じてるんだろう。
「……やっぱり……こわ、い」
 怖い。抱かれるのが怖いんじゃない、自分の体が怖い。このまま快楽の波に身を委ねて醜態を晒してしまうのが怖い。常務ともそうだった。そこに愛が無くても、SMまがいの酷い扱いでも僕は最後は自分で求めてもっとと腰を振るほど感じてた。またあんな厭らしい自分に戻ってしまうのが怖いんだ。
逃げようともがいてみても、背中は壁、大きな体にのしかかられて逃れることが出来なかった。
「怖がらなくていい。ほら、これは?」
 大きな固い手が浴衣の裾を捲り上げて僕の内腿をゆっくりと撫でた。同時に背中に回された手が子供を宥めるように擦る。とても優しくてうっとりしかけたら腿から更に上がって来た手が股間に達した。
「や……」
「勃ってるじゃないか」
 僕の意に反してしっかり体は反応してる。今まで女性の全裸を見てもぴくりともしなかったのに。
 下着の上からやんわりと握りこまれて思わず唇を噛んだ。
「んっ……!」
 どうしよう……気持ちいい……!
「いい顔だ。気持よくなっちまえばそん時だけでも嫌なことも現実も忘れられる。生きてるって実感できる。溜めてるもんを全部吐き出しちまえ」
 そっと眼鏡を外された。
 僕はその太い首に腕を回し、逞しい体に身を委ねた。
「綺麗だ……」
 タオルを咥えて声を押し殺し、秋の月の光が差し込む古びた宿の畳の上で、二匹の獣のように絡まりあった影が障子に映るのを、霞のかかったような頭でぼんやり見ていた。

「体、きつくないか? おぶってやろうか?」
「少しだるいけど……平気。歩けます」
 一時間あまり互いに何度も達して出し切った後、部屋にこもる臭いを消すために窓を開け放した結果、夜風が冷たすぎて眠れなくなってしまった。そのついでにそっと部屋を抜けだして近くを散歩することにした。
 自分で言っただけあって、達也さんは上手だったし優しかった。今まで事後にまともに腰が立った事なんかないけど、こんなふうに体を気遣ってもらったことも無かったから嬉しかった。
「あんまり良かったからさ、ついやり過ぎたけど、ゴメンな」
「僕は逆にこんなに大事にしてもらったのが初めてなので驚いてます」
 正直に言ってしまい、しまったと思ったが彼は気にした様子もなかった。
 しばらく無言で静かな夜の町を歩く。電柱の切れかけた蛍光灯が点滅するのと、いつからあるのかわからない自動販売機の灯りだけの町。後は冴え冴えと輝く秋の月の光。コンビニも、都会だったら夜明け近くまで営業している店も何もない。シャッターの下りた店はそもそも無人なのかもしれない。
 自分達の足音と、遠くで鳴く虫の声、そして遠い海の音だけが響く。
 不思議と寂しくないのは隣に人がいるからだろうか。僕より頭半分は高い背に幅も厚みもある。太ってないけど筋肉の量が全然違う。同じ男でもこうも造りが違うものなんだな。先程何度も撫でたチリチリの髪。思ったより柔らかい手触りだった……そんな事を思いながら見上げてると、優しげな顔がくるりとこちらをむいて悪戯っ子のように笑った。
「学校がある。入ってみよう」
「不法侵入になりませんか?」
「随分前に廃校になってるみたいだぜ。なーに、怒られやしないって」
 いいのかなと思わなくもないけど、興味もあってついていくことにした。
 もう何年も放置されたままのような木造の建物は案外大きかった。昔はここに沢山の子供たちが通っていたのだろうか。流石に校舎は大きな鎖と南京錠で入れなくなっていたが、体育館だけは鍵が開いていた。
 しーんと静まった広い体育館。少し埃っぽいが何かの用事でこの町の人も出入りするのか、わりと小綺麗だった。
「なんか懐かしいな。いやぁ、別にこの小学校の卒業生じゃないけどさ」
 それは僕にも頷けた。学校っていうのはどこもだいたい同じ雰囲気だ。
 しばらく意味もなく体育館の中を歩きまわって、舞台の下の隅の方にグランドピアノを見つけて達也さんがかけよった。
 長い間誰も触っていないのか、蓋をあけるとぎぃと軋んだ音がした。
 椅子にかけて、ポロロン、と鍵盤の上に手を滑らせ、彼は肩を竦めた。
「あー、出ない音もあるし何年も調律もしてねぇな。ピアノ線も錆びてる」
「達也さん、ピアノ弾けるんですか?」
「まあな。これでもピアニストになりたいなんて思ってた頃もあったんだぜ。こんな熊みたいな男に似合わないって思ってるだろ?」
 照れくさそうに笑った顔が高い窓から差し込む月の光に浮かぶ。
「うん、すごく意外……」
「正直だな。ま、俺もわかっちゃいる。正解だったのかもな、今のこの生活も悪くはない」
 青白い月の光の下でも、日焼けした浅黒い肌なのがわかる。無骨な太い指。
「物心ついた頃からピアノをやってた。中学も高校もずっと音楽一筋だった。絶対に有名なピアニストになるって俺も周りも思ってた。だが小さい会社をやってた親父が不渡りを出してな。会社は倒産、借金取りに追われる生活になって、ピアノどころじゃなくなった。ってか、家ごとピアノも売られちまったし。大学も行かずに働いたよ。大事に大事にしてた手だったが、マメが出来ようと怪我をしようと働いた。おかげさんでこの筋肉ボディも手に入った。親父が死んでその保険金で借金もほとんど返せたし、今の運送屋は給料もいいし工事現場よりかは楽だ。金も少しづつだが溜めてる。だが休みもほとんど無いし、勤務時間なんてあってないようなもんだ。正直キツイよ。それでもまあ何とかこうやって面白おかしく生きてる」
「……」
 なんと言葉をかけていいのかもわからなかった。人それぞれ違う人生があるのはわかってる。僕は自分が不幸で死んだほうがマシだとずっと思ってきたけれど、僕より余程苦労してきたであろうこの人は笑顔で生きてる。どうしてそんな風にプラス思考でいられるのだろうか。
「なんでこんな俺の身の上話なんかしてるんだろうな。ま、気にすんな」
 気にするなってすぐ言うけど……でも聞いちゃいけないことを聞いた気がして、僕はただ頷いた。
 しばらく鍵盤を慈しむように撫でる達也さんに思い切って声を掛けた。
「何か弾いてほしいな」
「じゃあ得意のショパンを。明久君だけに捧げよう」
 おどけたように胸に手を当ててお辞儀した彼。熊みたいなモミアゲのゴツイ人からショパンの名が出て失礼だが少し笑えた。
「笑うなよ。いや……笑えるようになったんならいいや。お前、車に乗せた時はどう見ても死にそうな目をしてた。生きるのが嫌になった顔だ。それに手首に何本も傷跡があった。ひよっとして自殺する場所でも探してたんだろ?」
「……」
 また何も言えなかった。その通りだったから。一目見てわかるほど、僕は酷い顔をしてたんだろうか。それとも繊細さとは程遠いようなこの人は、それほどまでに人の心の機微を読むのが上手いのだろうか。リストカットの跡は隠してたつもりだったけどやっぱり見えてたんだ……。
「でも今はスッキリしたいい顔してる。見てたらさ、まず美味い飯を食って少し表情が出てきた。ヤってる最中はすごく色っぽい顔してた。今は吹っ切れたみたいなホントいい顔してるぜ」
「そ、そうかな」
「ああ。昔な、俺が世話になった人が言ってた。腹一杯になって欲求満たせば大概の気の病は治るってな。お前見ててホントなんだって思ったぞ。まあいいや、じゃ弾くぞ」
 古びた椅子にかけ直し、両手を前にあげて鍵盤の上で止める彼。
「ショパンのノクターンはいっぱいあるけど、二番が好きだ」
 ポロン……
 無骨な手が繊細な動きで別の華麗な生き物のように動き出した。錆びたピアノ線の歪んだ音も気にならないほど心にしみる旋律。ピアニストになりたかったと言うだけあって見事な演奏だ。
 よく聞き慣れた曲だけれど、こんなのはじめてだ。廃校の体育館なのにここが大きなコンサートホールのような錯覚を覚えた。月の光のスポットライトを浴びて、僕のためだけにピアニストが美しい曲を紡いでいる。
 どうしてだろう、涙が出てきた……。
「泣いてもいい。乱れたっていいんだよ。俺も死にたい時があった。でもこうして今生きてる」
 ピアノの音と、彼の声。
 それは永遠に続いて欲しい時間だった。
 お腹も欲求も満たせば大概の気の病は治る……か。僕の「死にたい病」も本当に飛んでいってしまったように思った。
 その後宿に戻り、僕達は日が高くなるまで眠った。
 こんなに深く眠ったのは初めてだと思えるほど、爽快な目覚めだった。
 トラックに戻って、僕は先の大きな町まで一時間ほど一緒に乗せてもらい、別れの時がきた。
 出会ったあの瞬間と同じように、窓から上半身を乗り出した彼。それが達也さんを見た最後だった。
「本当にありがとう」
「生きてさえいりゃいいこともあるって、俺はそう信じてる。だからもう死のうなんて思うんじゃねぇよ。いつかまたどこかで会えるといいな。そんときゃまた一緒に飲もうや。忘れねえよ」
「うん、会えるといいですね。僕も忘れません」
「それから……」
 こっそりと「今までのどの相手よりもよかった。またやりたい」と小さく囁かれ、僕が自分でも顔が熱くなるのを感じてるうちに、窓から片手を出したトラックは走りだした。
 さようなら。
 僕はトラックが見えなくなるまで手を振り続けた。

 達也さんのおかげで僕は生きようと思った。知ってる人がいない町で、もう一回やり直そうとアパートを借りて小さな会社に勤めた。
 でも僕が落ち着いてすぐ、昼休みに何気なく見てたテレビに彼の名前と顔写真を見た。高速道路で起きた事故のニュース。他の人を巻き込まない単独事故だったけど、橋から防護壁を乗り越えて車ごと崖下に転落するという派手な事故だった。達也さんは即死だったらしい。原因は長距離を休息もとる間も無く走り続けた事による居眠り運転。運送会社は過労運転を強いたものとして処罰を受けた。
 人に生きろって言っておいて、さっさと自分は死んでしまった彼。またどこかで会えるかもという小さな望みは完全に無くなった。
 ……そして僕も。
 去年の健康診断で腸に腫瘍がみつかり、精密検査の結果は悪性の癌だった。すでに肝臓にも転移してて、まだ三十代というのもあって進行は驚くほど早かった。手術ももう出来ないらしく薬での治療を受けているが酷い貧血と虚脱感、疼痛に苦しんで仕事も続けられなくなった。元々細かった体は骨がわかるほどに痩せこけてしまった。
 多分、もう数ヶ月持たない。
 だから僕は少しでも動ける間にまた旅に出た。今度は死に場所を探す旅じゃない、今まで生きてきた証を辿る旅に。子供の頃からそう沢山の思い出があるわけじゃない僕の、おそらく一生で一番濃くて、幸せで、美しい一夜の記憶のあるこの寂れた町にどうしても来たかったのだ。
 達也さん、僕ももうすぐそっちに行くけど、覚えててくれるだろうか? 僕は忘れないって約束通り、その顔を覚えてるよ。
 あの世で出会えたら、その時はまた一緒に美味しい魚を食べてお酒を飲んで、優しく抱いてくれるかな。その後ピアノを弾いてくれると嬉しいな。
 あの思い出のノクターン第二番を。

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まいるどタブレット小説 Ver1.13